意識のある場所
私の「パラレルワールド」に関する考え方は、このブログでもたびたび記事にしてきましたが、簡単に言ってしまえば世界というものは常に相対に置いてしか成り立たず、自分があるから世界があり、自分がなければ世界も無いのです。これは屁理屈でも詭弁でもなく、現代科学の中核をなす量子論においても支持される考えであると思っています。
つまり、私の世界とあなたの世界は異なり、他の人の世界はまたさらに異なるのです。私はそれをパラレルワールドとして捉えています。簡単に言ってしまえば。
そして、私は最近の瞑想の中で、自分の意識と記憶のある場所を探っていたのですが、パラレルワールドと意識・記憶の場所にともに関連して面白いことが書いてあったのです。
上手く説明できそうにないので、興味のある人は本を読んでみて欲しいのですが(やや解りにくいかもしれませんが)、私たちが世界だと思っている目の前の現実こそが自己の内部で、私たちが精神世界だと思っている世界が自己の外部だという考え方です。
自分の命の根源を探ろうとするとき、肉体の中に存在する心の中へと深く入っていくイメージだと思うのですが、実はそうではなくてその反対、目の前の時空間にこそそれは存在しているのだというのです。
そこにあるものは何か?そこに存在しているものは何か?
「光」です。私が言うところのパラレルワールドをズバリ、物理的に表現するとある意味においてはまさにそうであると思うのです。
それは、聖書なんですね。単なる神話ではなく、深い世界観が表されているんですね。歪められ、誤り伝えられたりした部分も多々あるでしょうが。
言葉についても、興味深いことが書かれています。ただ、まだキチンと理解できていません。(笑)
私は自分(イメージとして肉体の内部という場所に囚われて)と世界を表裏一体として感じようと瞑想していましたが、実は真実はもっともっと表裏一体の関係にあったのかも知れません。
まだ、自己と世界を一体的に感じる事については、瞑想などを通して色々と模索中ではありますが、とてもオモシロイ考え方だと思ったので紹介させていただきました。
世界に広がる光こそが自己の根源だとする考えが真理かどうかはまだ模索中ですが、瞑想で色々と試してみています。
自己と世界を一体的に感じる事を意識し始めてから、感じる気の領域が体外に広がり始めています。
気の感覚については相変わらず何の芸当も出来ず、自己満足といわれればそうなのですが、とにかく凄く興味を持って自分の気の感覚の進展にワクワクしている事だけは確かです。
まだまだ、気が強く広くなっていくことだけは間違いなさそうです。とりあえず、2年くらいは進歩し続けて、さらに3ヶ月くらいはそれまでの2~3倍のスピードで進歩しつづけているのは事実ですから。
今は、19~39歳くらいの期間に時々襲ってきた猛烈な偏頭痛は、ある種のエネルギーを通してDNAが進化する過程での副作用だったのだと強く思っています。
時々、チャネリング情報で今は進化の副作用として調子が悪くなったり気力が無くなったりしているかもしれませんが、というものを目にしますが、私はそういう意味では絶好調です。過去の偏頭痛や20歳頃の猛烈な怠さがそれだったのだろうと思っています。
少し暖かくなってきて、心も明るくなっています。日常ではまだしばらく面倒が続いていく見通しですが、心は明るいです。もうすぐ春ですねぇ♪