アセンションの時代

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Q 幸福って・・・

頂いたテーマで少し書いてみたいと思います。

「二元性の幸福」と「一元性の幸福」と言う事で、その言葉の解釈を掴みかねていますが、一元性の幸福が「絶対幸福」と言う事で、二元性は相対的と言うことかなと解釈してみました。

そもそも、「幸福」というのが何なのかと言う事になると思うのですが、それは「心の状態」であると言う事が出来ると思います。

では、心がどのような状態であれば「幸福」と言える状態なのかと考えてみれば、「愛」に満たされた状態だと言えると思います。

では、具体的に「愛」とは何なのか・・・・・、と言うように、当たり前に使っている言葉の意味も、それぞれ各自の経験からのイメージで適当にやり過ごしてしまうと、根本的に同じ事を言っていながら、異なった考え・思いを持ってしまうことになります。

ある意味では、その異なりを完全に消す事は出来ないのですが、ある程度同じにそろえて世界を認識して見る事は出来ると思います。

例えば、「幸福」を、「そんな事は誰でも知っている」と言う事でそのまま議論を深めていくと、おかしな事になっていくんですね。

それは、誰でもが「自分の価値観に基づいて」知っているのであって、価値観は人それぞれなのです。例えば、「お金」や「物質的豊かさ」、「地位や名声」を幸福と考えている人も大勢いるのです。

例えば、名声は物質ではなく「心の状態」における比重が高そうに思えるかも知れませんが、それは外側から与えられ、外側の評価に依存するものであって、自己の内面から自然に沸きあがるものではありません。

議論に先立って、そうした認識を揃えておく必要があるんですね。

「幸福」とは「心の状態」である。それは、「愛」に満たされている。

愛とは「調和」であり「一体感」であり、拡大した自己認識だと言えるのかも知れません。

つまり、「自分と他を区別しても差別しない」状態だと言う事も出来るかも知れません。

例えばその時に、絶対的な幸福(一元性)と言うのは、「今・ここに存在する」と言う事をより深く理解すると言う事だと思います。

おそらくこの表現ではうまく伝わらないと思いますし、自分でもシックリとこないのですが、最終的にはそこにたどり着くと思うので、一応はまず、そう書いておきます。

存在するものは、全てを含めて1つのまとまりとして存在しています。私はあなたであり、あなたは私なんですね。いずれもが存在(大いなる全て)なのです。

それを思い出す事が出来れば、自然とそこに調和がうまれます。相手の喜びが自分の喜びとなり、自分の喜びが相手の喜びとなります。

自分が犠牲になることは、相手を犠牲にする事と同様に、良い選択ではないのです。お互いがお互いを尊重する中で、調和を高め続けていくのです。

そうした在り方によって、お互いの内面から絶対的な幸福、つまり、唯一である大いなる全てとしての本質的波動が湧き上がってくるのだと思います。

では、相対的な幸福(二元的)とはどの様なものでしょうか。

それは、自分に対する相手の反応によって、自分の幸福(心の状態)が大きく左右され続けると言うものだと思います。

つまり、相手に「依存」しているのです。自分が幸福になれるかどうかは、「相手が鍵を握っている」状態です。

この状態では、一時的に幸福を手に入れることが出来ても、それを継続する事はかなり難しい事になります。自分が幸福である分、相手は拘束される事にもなるかも知れません。

お互いが、これが幸せだと思い込み自分を納得させる状態でのみ、継続する事の出来る状態だとも言えるかも知れません。

しかし、片方が変化を望めば、その時点で双方の幸せは崩れてしまう事になります。

だからと言って、それら全ての経験が間違っていると言うように誤解してはいけないと思います。それらの全てにも、さらなる幸福に至るために「学び」の機会が凝縮されている訳ですから。

例えばよく、「恋」と「愛」の違いについて議論されますが、本来、「愛」と言うものは無条件であり、見返りを求めるものではありません。

自分と相手に「差別」を持ち込まないのです。

親は子を育て、子供の幸せを自分の幸せとして受け取ります。金銭的にその見返りを求める訳ではないのです。

しかし、「恋」と言うのは、「より多くの見返りを求める」傾向があります。「愛して欲しい」と言う欲求、「愛したい」と言う欲求の1つの表れが「恋」となるのです。

つまり、恋と言うのは「愛への憧れ」であり、二元性の世界観に基づいた「自他を差別して条件(見返り)を付けた愛」なのです。

子供やペットなど、恋愛に限らず、あらゆるものにも自他を差別して条件をつけると、それによって成り立った幸せは、言われるところの二元性の幸福と言う事になるのだと思います。

例えば、相手の反応に左右されない幸福と言うのは、何かもの寂しくも感じるかも知れませんが、それは相手に興味・関心が無いからと言う訳ではないのです。

相手の考え・思い・経験を尊重しているから、それを認めてこちらから意に反した介入はしないという事なのです。当然、良い影響は与え合っていけますし、相手を無視すると言う訳ではありません。

私達は、言葉によってお互いに分かり合った気分でいますが、実際にはその単語1つの認識を確認しても、人それぞれの理解の仕方で、まるで違った思いを抱いているのが「普通」なのです。

逆に言うと、全ての人はそれぞれの個性によって、他の人々とはそれぞれに異なった認識を持っているのに、「言葉」と言うツールを通して、まるで同じ認識を持っているかのように誤解して来たのが、これまでの私たちなのです。

例えば、テレパシーなどが私達の能力として定着してくると、これまで言葉と言うツールのやり取りによって同じだと思っていた人々の思考が、これほどまでのそれぞれに異なっているのかと言う事が良く理解できてくるのかも知れませんね。

話がそれて来ましたね(笑)。これくらいにしておきます。



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