アセンションの時代

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「教育と学び」の未来

今日は頂いたリクエストで、教育・学びについて書いてみたいと思います。

基本的には、それら以外にも何でもそうなのですが、こうあるべきと言うほどのものは特に無いと思います。

各自が各自の考えを実践し、そこから学びを得ていく事が大切であり、そうしたお互いの選択を認め合っていく事のできる自由度の大切さが今後は認識されていく事になると思います。

ただ、そうは言っても、リクエスト頂いた様に、より効率的に調和を吸収していくための教育や学びの方向性と言うものはあり、大雑把な方向性として書いてみます。

それを具体的に表していく上では、それぞれの選択によって柔軟に表現されていけば良いのだと思います。

基本的に、これまでの3次元的な物質に固執した競争社会の中では、教育と言うのは、与えたものを受け入れそれに適応していくと言うものでした。

つまり、「主体」が与えられたもの(与える人)にあり、自分と言う存在を無理やりその型枠に押し込んでいく事を競い合っていたのです。

それによって、ご褒美(学歴や就職先など)が与えられていたからです。

それは、没個性により、搾取・支配的な社会を支えるための歯車を作るために、それを支配する人々によって意図的に構築されてきた教育システムなんですね。

ひふみ神示的に言えば、それは、イシヤの仕組みの一部であるとも言えます。

簡単に言えば、これから私達が向かって行く教育・学びの方向性と言うのは、単純にその反対方向だという事です。

これからの「教育」と言うのは、幼い子供達が社会に適応するために必要な知識を身に着けていくためのものに留まり、そこから先は「学び」の要素が強まると思います。

教育とは教え与えられるものであるのに対して、学びとは自ら進んで吸収していくものです。

これまでの現実の中には、実質的には「学び」が存在してきませんでした。

学校での勉強は基本的に学びではないんですね。これまでの私達の現実において学びと言えるのは、「趣味」である場合の方が多かったと言えるでしょう。

これからの教育と言うのは、基本的な共通した内容としては小学校卒業程度までの知識で充分だと思います。もちろん、まったく丸ごと今のままでと言う意味ではなく、様々な調整は必要になってきますが。

また、科目的にはスピリチュアル的なものが必須に成って来る事は確実だと思います。

そのスピリチュアル的な教育によって、「他人との比較」「競争」する事の無意味さが教えられるために、当然、比較競争的な要素も取り除かれた上での教育になっていきます。

そうしたものと平行して、各自がそれぞれに持つ個性の発見・発現もサポートされて行く事になると思います。何に興味を持ち、何がしたいのかを見つけて行くために、様々な経験の機会が与えられると思うのです。

そうして得た知識と、見つけ出した個性がベースとなって、その先に自らの好奇心・活力を原動力とした「学び」が広がっていく事になります。

これからの時代は、人工知能やロボット技術など諸々の技術の発達によって、「生きるための仕事」は急速に無くなっていきます。

すると、私達は採算に頭を悩ませる事無く、自らの個性を活かして社会に貢献して行く事が主な人生のあり方になって行くのです。

目先では、人工知能やロボットが稼ぎ出した富が人々に再配分され、金銭的な面からの最低限の生活は均等に保障されることになって行くでしょう。すでに、そのためのベーシックインカムと言う制度は、先進的な試みとして、欧米などの各地で部分的な試行の段階に入り始めています。

ただ、現時点ではその財源を賄うための税制改革が遅れています。しかし、これまで社会を支配してきた人々の権力が至る所で失われ始めており、近い将来には大幅な税制改革も行われる事になるでしょう。

私達は、「個性」ゆえに、自分が自分として存在している事に、他には変えられない価値を持っているのです。

それを、押さえ込むために押し付けられて来たのがこれまでの教育であり、それを大きく育てて行くのがこれからの教育です。

教育は義務として押し付けられるものではなく、個性が秘めている活力を引き出すためのサポートとしての位置づけを得る事になり、それを土台として学びが加速し、それが社会に還元されていく事になるのです。

とても大雑把なくくりでの話でしたが、こんな感じです。



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