アセンションの時代

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無宗教の問題点

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ダーウィンの進化論の登場により、欧米諸国ではそれまで常識とされていた“創造論(神が世界を創造したとする考え方)”の神通力にかげりが見え始め、教育現場では聖書信仰を教えなくなりました。しかしその事によるモラル教育等の欠如が、現代アメリカ社会の病根の原因だという指摘があります。もともと宗教心の薄い日本では、今や進化論が疑いようのない常識として世間一般に広まっています。今回は日本で疑いようのない常識となっている「進化論・無宗教」の問題点を考えてみます。

生命は偶然誕生し、神(及びそれに類する存在)など存在しないという考えを受け入れたとき、社会が抱え込む問題点とは何なのか?私達はたまたま偶然に誕生した。今生きているこの世が全てである。死んでしまえばそれまでである。この広い宇宙、永遠とも思える時間の流れから見れば、私達の存在など無に等しい。さて、このような前提を受け入れた時、私達は私達自身の存在にどのような価値を与え、どのような人生を創造あるいは見つけ出すことが出来るでしょうか?このような前提では、生命(特に人類)存在の意義や目的に、人類共通の価値を見いだすことは難しくなります。なぜなら、偶然誕生したわけですからもともと存在意義など無いのです。無いものは見つけられない。だから、創造する事になります。そしてそれは、それぞれの人がそれぞれに決めるしかありません。共通のベースになるものが無いのだからそれも仕方がありません。存在意義の、もっとも根本的な部分の決定権が各個人の判断に委ねられた時、例えそれによりどんな危険な思想が生まれようとも、私たちには胸を張ってそれは違うという事は出来ません。もともとの意義や価値は無なのですから。多数決により批判するのが限界ではないでしょうか。
したがって「進化論・無宗教」の世界には、存在意義は無く目的もありません。つまり人生には意味がありません。人生の意味は各自が勝手勝手に決めれば、それがそのまま真実となります。例えそれがどんな危険なものであろうとも。そのような社会では多数決が最も有効な決定手段となります。言い換えれば、他に有効な決定手段が無いのですから。全てを包み込む大いなる価値観・存在意義が無いのですから。だって、全てはたまたま偶然に出来たんですから。
だから、人々は自分の人生に意義を与えかねています。もともと意味の無い人生に、それでも何とか意味を与えたい。しかし、どんな意味を与えたところで自己満足の域を出る事はできない。どうせ、偶然たまたま生まれた自分であり、死ねば何も無くなってしまうのだから。しかも宇宙という大きさと時間の流れから見たとき、自分など無いにも等しい。蚊やハエと自分との区別さえ、自己満足以上の意味を与えられない。

それが真実ではないでしょうか。無宗教者が宗教者を笑うのが今の日本の日常ですが、無宗教者は野党と同じで批判はするけれど、より良い考えを持っているわけではない。その多くは考える事を放棄した人々では無いでしょうか。しかし、全てを批判しようとしている訳ではありません。なぜなら、真実を知る人などおそらくいないのでしょうから。しかし、答えの無い中でより良い考えを検討する時に、無宗教にはこのような欠点があります。
だからと言って宗教が肯定されると言いたいわけでもありません。近いうちに、「創造論・宗教」の問題点を考えてみたいと思います。そして、その次にはいまアメリカで急速に広まりつつある第3の選択肢について私の考えを織り交ぜながら書いてみたいと思っています。

人間の存在意義についての動画です。良かったら見て下さい。
http://www.youtube.com/watch?v=e8dOEQEj0KA