恐れる心 「百害あって一利なし」
全ての出来事は中立です。その物理的現象自体はポジティブでもネガティブでもありません。
「ピンチはチャンスなり」。この言葉はこの真実を面白く表現しています。ピンチ(ネガティブ)かチャンス(ポジティブ)かを決定するのはあなた自身だという事です。
ネガティブの根源を成しているのは、「恐怖心」のようです。では、恐怖とはそもそもどういった心なのでしょうか。
「神との対話」のウォルシュ氏によると、恐怖には2つの種類があるそうです。
1つは「必要な物を得られないかも知れない」という恐怖
1つは「既に得ている必要な物を失うかも知れない」という恐怖
私達の心がネガティブに傾くとき、それは「得られないかも知れない」と恐怖し、「失うかも知れない」と恐怖している時です。
では、「何を」得られない?あるいは失う?のか。それは、「生存あるいは幸福に必要なもの」と【思い込んでいる】もの。
その誤った思い込みの原因は、意識的であれ無意識であれ、自分はどこまでもこの肉体を主とする存在であり、自分を形成しているこの自我も肉体の死と伴に消滅してしまうという誤った幻想から生み出されているのではないでしょうか。
では、人間のその本質が、魂あるいはさらに根源的には霊的な存在であると知ったとき、それでも人々は「恐怖」する必要があるのでしょうか。
私達の本質が魂や霊であり、この肉体を伴う4次元世界をその現れ(鏡)であると知れば、私達の存在は永遠であり、生存のために必要なものなど何も無いのです。幸福のために必要なものなど何も無いのです。なぜなら、私達は既にそれを手に入れており、失うことなど出来ないのです。
ただ、私達はその真実を「忘れてしまっている」のです。
それはまるで、自分のポケットに親から与えられたお小遣いをたくさん詰め込んでいながら、その事を忘れ縁日の屋台の前でお菓子やオモチャを物欲しそうに悲しく眺めている子供のようではないでしょうか。
それを思い出すことが出来れば、何もネガティブな心で恐怖する必要は無くなってしまいます。
そしてかわりに、「後悔・悔しさ」が生まれるかも知れません。そのチャンスを活かせていない(いなかった)悔しさです。せっかくのチャンスを棒に振ってしまったと。
私達は魂的な存在として、その成長のチャンスをこの4次元世界に得ることが出来たのです。それなのに、その目的を忘れ、物質的欲望などに目がくらみそのチャンスを無駄にしてはいないでしょうか?その人生に「後悔」はないでしょうか。
しかも、今回の人生はアセンションという魂成長の特別な大チャンスなのです。
「恐怖」は判断を狂わせます。ある中立的な物理現象を切っ掛けにして、ネガティブな心のスパイラルを生み出します。
もともと、「恐怖する心」が誤った世界観に根差した心であるだけに、そこから育つ世界が歪んだ世界となって形成されていくことは想像に難くありません。
恐怖する心は、百害あって一利なしです。その失敗から学べばそこにも利はあるのですが、もう私達は充分過ぎるほどに恐怖を経験してきたはずです。充分に学べるだけの経験をしてきたはずです。いつまでもそれを続けているわけにはいきません。種まきと成長の季節は過ぎ去り、いま刈り取りの季節が始まろうとしているのです。
私達は恐怖する心の誤りを知り、世界の真実に「気づいて」いかなければなりません。
私はこれまでにたくさんの失敗をしてきましたが、「後悔」する事は何もありません。
きっと、バカなんでしょうね(笑。
蛇足となりますが、「恐怖」を無くすとは目を逸らし瞑るという事ではありません。直視しても恐れる理由がないという真実に気づきましょうという事です。
もちろん、それはある意味難しく、私自身しっかりと出来ている訳ではありませんが、私の目指している方向です。