アセンションの時代

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瞑想~気功~波動

1年半位前から頭部の中に「気」を強く感じるようになり始めてから、これまで一貫してその「気」の感じ方が強まってきている訳ですが、止まりませんね。自分の感覚が、「普通」からかなり離れてきている事に時々ふと気付きます。
 
ただ1年半の間、一貫して強まってきていると言っても、それは本当に少しずつの進歩です。しかし、少しずつであっても常に4~5日くらいごとには、実感として「あっ、また少し強くなった。」というのが良くわかります。それは、感じる場所の広がりや熱の強さ、集まるスピードや感じ方の強さなどです。
 
始めの頃は、「勝手に頭部に気が集まってしまう」という状態で、「集める」というよりは「勝手に集まって困る(偏差というか、ようは痛かったんです)」ような状態でした。しかし、今では勝手に集まったとしても、ある程度は散らせるようになり、頭痛等で困るということはありません。また、逆にすぐに集める(感じる)ことも出来るようになってきましたし、頭部に限らずほぼ前身(足・脚はイマイチですが)で「気」を感じることも出来るようになってきました。
 
そして、現在の進歩の先端は、自分の体外の気との関係にあるように思います。その「場の気」を感じられるようになっていく様な気がします。
 
気を感じるときに、まず自分の中の気を感じてから、そこへ外からの気を取り込む(あるいは外との境界を無くし拡大する)様にイメージするのですが、特に目を開けているときに外の(その場の)気がわかるようになってきています。色や形に見えるわけでなく、ただ「感じる」というだけですが。
 
これまで気が集まった状態で目を開けているときに、自分の体からうっすらと霞(湯気みたいですが熱はまったく感じられません)が立ち上るのが見える事が良くあり、時々ですが空間の深い(密度的に)ところへ意識を向けるようにしていたのですが、その意識が感覚へと進んだのかもしれません。
 
そして、その事により「外の気を自分の内に取り込む」という事が格段に進歩したような気がします。自分の内とは基本的に下腹部(下丹田)です。他の部分にはあまり入っていきません。感覚としては容量オーバーで入らない感じです。しかし、下丹田にはドンドン入っていきます。
 
外の気を取り込むことについては、私の場合は神社の境内にある巨木がとても役立っている気がします。以前にも書いたことがありますが、私は神社に行くのが好きです。特にこの3~4年は、大社や神宮などの大きな神社にチョイチョイと出かけてきたのですが、その境内の雰囲気(気)と参道に立ち並ぶ巨木の醸し出す雰囲気(気)が大好きなんですね。
 
瞑想や気功、あるいはヨガ等で普段「気」を感じる習慣のある人ならわかると思うのですが、巨木の幹に手を当ててその「気」に集中してみると、凄いんですよその「気」の大きさが。
 
だけど、場所によっては巨大なご神木は、柵に囲まれてその幹に触れることが出来ないんですね。そんな時に、巨木から少し離れた状態でその「気」を感じるんです。これも手のひらを振れて感じるのと大差なく、普通に感じることが出来やすいと思います。目を閉じてただその木の「気」に集中するだけです。
 
それから通常のように人の少ないときなら問題ないのですが、今のようにゴールデンウィーク等で神社にも人が多いような時には、その気を避けて人々の頭上の空間の静寂を味わうのです。木々に囲まれたその雰囲気を楽しむのです。
 
そうした神社での経験が、「場の気」を感じることに役立ったような気がします。
 
私はこれまで自分の経験については、「気」という言葉を使ってきました。しかし、これまで私が得てきた知識には、「気」という表現はあまりなく、それに似たような表現として「波動」というものが頻繁に出てきました。
 
自分の中でもあまりその辺の事について深く考えたことは無かったのですが、その関係について気付いた事がありますので、アセンションとも絡めて少し書いておきたいと思います。
 
現在、地球には銀河系の中心あるいは太陽から、強い光のエネルギーが降り注いでいると言われています。そのため、人々は「アトランティスの時代以降に失っていた第六感」を取り戻そうとしているようです。私がこの1年半の間にドンドンと気を感じられるようになってきたのも、そうした環境による影響が大きいものと考えられます。
 
これまでの時代であれば、文字通り「修行」を積んでゆっくりと感じるようになっていく感覚が、興味を持って楽しみながら止まることなく進歩して行けるのは、今の時期のそうした特殊要因によるものだと思います。
 
しかし、そうした環境は万人に同じであるのに、なぜ感じる人と感じない人とがあるのか?それについても問題は単純です。まず一つ目には、殆どの人間は第六感という能力を失ってしまっている訳なのですが、100%全てを失っているわけではなく、なおかつ個人差があるんですね。従って、その能力を取り戻すスピードにおいても個人差があるという訳です。
 
しかし、それはあまり問題ではないと思います。ちょっとばかり早いから遅いからと言って、長い時の流れから見れば大した問題ではありません。大切なのは、今この時代に、私たち人類は第六感を取り戻すことになるという事実だと思います。
 
それからもう一つ、こちらは大した問題です。
 
私たちはそう言うわけで、極端な話しとして放っておいても(多分・・・)第六感を取り戻して行くわけですが、それでもなお感じる人と感じない人がしばらくの間(人生という枠内においては当分の間)残ってくると思います。
 
それは目を開けている人と目を閉じている人、耳を澄ましている人と耳をふさいでいる人との違いです。これはとても大切な問題です。「ある人と無い人」ではなく、「使っている人と使っていない人」の違いだという事です。「心ここにあらざれば、見れども見えず、聞けども聞こえず」という訳です。
 
1つめの問題は放っておいてもいつかは解決しますが(多分・・・?)、2つめの問題は各人がそれぞれに気付かなければいつまでも解決することはありません
 
この様な事。つまり、「目に見えない世界を感じ取る能力と感じたもの」についてこれまで書いてきたのが、私がこれまで書いてきた「気」に関する記事等だと思います。
 
それに対して「波動」は、「感じたものの質」を表現していると思います。その辺の事については、表現の仕方の問題なので、同じとも違うとも言えるかもしれませんが、少なくともこれまでの私の無意識的な表現的区別としては、「感じる能力と何であれ感じたもの」を「気」。「感じたものの質」を「波動」として表現していたような気がします。それは表現上の問題であり、正しいとか違うとかいうものでもないかもしれませんが。
 
そうした場合、今回のアセンションにおいては、「気」は放っておいてもクリア出来るが、「波動」はそうはいかない事になります。
 
神示的な表現を使えば、私たちは取りあえずこの人間界に存在している事になる訳ですが、その上、つまりアセンション(次元上昇)する先には霊界があり、そのさらに上へと進んでいくと神界があります。
 
この様に上だけに進んでいく次元上昇であれば良いのですが、実はそこには落とし穴があります。幽界という世界です。岡本せつ子さんのチャネリング情報では、人間界を3次元界この幽界が4次元界であり、私たちは5次元界へアセンションするのだとされていたと思います。また幽界が霊界と表現されていたようにも思いますが、何れにしてもそれは言葉としての表現上の問題であり、本質的には同じ事が言われていると思います。
 
この様ないわゆる幽界という落とし穴、あるいはアセンションというものの本質を考えるときに忘れてはならないのは、「第六感としてこの次元を超えたものを感じ取る能力」そして「感じ取ったものの質」を区別して考えなければならないという事です。
 
今後、第六感を取り戻しても、波動が低いままでいれば幽界という人間の我欲が生み出した幻想の世界に捕らわれてしまうという事です。しかし、波動が高まれば霊界に繋がり、調和と幸せに満ちた世界へと繋がるという事です。
 
それをもう少し正しく表現すれば、調和して幸せになる生き方を身につけている人は霊界に集まり、我欲に満ちた分裂(自他を区別する)的な生き方をする人たちは幽界に集まるという事です。それは選別されていくのではなく、自分たちで選択して自主的に進んでいくのです。
 
これは俺の物だ!人を助ける暇があったら、ゴロゴロしていた方が遙かに特だ!と思い、あるいは行動していれば、そういう世界に自ら進んでいくのです。それが幽界です。我欲と分裂の世界です。そこへ行く人たちは、誰に放り込まれるでもなく、自分たちで自らその世界を選択するのです。
 
例えがうまくないかもしれませんが、私たちはこれから誰もがこの次元を超えた世界の情報を掴むための「ざる」を手に取ります。しかし、繊細な情報を取るための細かい目のざるがあれば、ゴツゴツした荒い情報しか取れない大きな目のざるもあります。
 
私たちは誰もが能力を身に付けていきますが、大切なのはその質にあります。それを解らずに能力に捕らわれ、人より少しばかり第六感を早く取り戻した人が、自分は特別だと勘違いし、我欲に囚われたまま幽界からの情報とつながってしまう例が多々あります。
 
お金や立場の差別化によって問題を起こすような新興宗教やそれに類する人々が巻き起こすのは、誰もが持つ能力に少しばかり早く気づいた我欲の心と、それをそのとおり特別なものだと崇めてしまった人々によって引き起こされているのです。
 
そんな能力は、今でこそ少しばかり珍しいものですが、取り立てて騒ぐようなものではないはずです。大切なのはその質です。例えまだ第六感の目覚めが遅れていても、質の向上は何の支障も無く進歩させる事が出来ます。
 
それは全てと調和し、その事に幸せを感じられる生き方が出来るという事です。それをより深くより深く進めていく事です。
 
たくさんある中の1つの行動として、瞑想をやってみるといいと思いますよ。これは第六感回復を早め、かつ波動の質を高めるきっかけにもなると思いますのでオススメです。では。