アセンションの時代

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大きい我・小さい我

今日の朝ですが、またしても身体が熱くなったり冷たくなったりして怠く、頭痛の気配が出始めていました。
 
経験的にそのままでは、地獄の体調不良コースが約束されていましたので、何とか先手を打って体調不良をかき消そうと色々と試してみました。
 
これまでの経験では、こうなり始めると瞑想で気を感じたりする事はタブーで、気の感覚が頭痛をかき回して余計にひどくなるのが通常でした。
 
しかし、何を思ったのか今朝は何とかしようと思ったあげくに瞑想に突入。しかも、例の巨大キャンドル水晶クラスターの前で・・・。今までであれば絶対にしない事でしたが、先日の頭痛の際に別の大型水晶クラスターの横で寝転がっていた時に、頭痛が和らいだ事が頭にあったので、それを確認してみたい思いがあったのです。
 
これまでは、頭痛の際に頭の中に気が集まってくると、頭痛に気の感覚が被さって状態がひどくなっていました。そのため、気の感覚を自分の中、つまり個体としての小さな我の中から、世界の全てを一体とする大きな我の方へ追い出そうと苦闘していたような感じがします。うまくいっていませんでしたが。
 
それを今回は変えてみました。小さな我を消す事を意識してみました。個体としての自分、つまり小さな我としての感覚を消していきます、消していきます。特にこれまでは、小さな我の外へ過剰な気を追い出そうとして、小さな我、大きな我をそれぞれ強く意識していたのですが、今回は小さな我を逆に消してみようとした訳です。
 
消して、消して、消して。それでも底の知れない感覚と意識が残っています。それが即、大我であるとは思いません。それは違うと思います。しかし、大我のごく一部を感じているのかもしれません。
 
瞑想し気を強く感じながらも、個体としての小さな我を極力消す事によって大きな我と隔絶することを避け、より強い密度で大きな我と繋がりを強めてみる。
 
うまくいきました。体調不良コースから快適爽快コースへの切換に成功しました。偏頭痛に取りつかれてから、苦節約20年。先手を打って、何とか誤魔化して消す事は時々出来ていましたが、正面切って絶好調への切換に成功したのは初めてだと思います。
 
ホント~に感激です。単発的なマグレ当たりでないことを祈るばかりです。
 
でも、そうして小さな我を極力消して、少しばかりでも全てと一体となったような気分になってみても、他の小さな我、つまり他の人々は自分から完全に切り離れた波動として感じる訳なんですよ。
 
今朝、職場で打合せ中に大きな我に繋がっているような感覚を持っていたのですが、他の人が話しをすると、その人の我は、いわゆる自分の小さな我からも繋がった気分であった大きな我からも隔絶されたハッキリと異なる我として感じてしまう訳なんですよ。
 
これって、やっぱり違うと思うんですよね。
 
そこで、自身と異なる小さな我、つまり他の人々や生き物とも繋がるというか、ユルイなりに一体化して感じてみたいと思いました。何となくその気配は微かに感じています。
 
心と心の押したり引いたりの波動的バランス(あるいは揺らぎ)を一体的に感じるという事です。
 
ひふみ神示にありました。相手が1と出れば9と応じよ。7と出てこれば3と受けよ。12と出てきたのなら8あるいは88と受けるのです。
 
それは「調和」なんですね。何か少しだけ解ってきたような気がします。
 
相手とのやり取りというのは口・耳・脳でやり取りするものだと無意識的に感じていたと思うのですが、実はそれは単なる現れでしか無かった訳なんですね。口と耳と脳では、調和をすることは出来ないのです。
 
本質から出なければ調和することは出来ないように感じます。では、本質とは何なのでしょうか?
 
それをキチッと表現する言葉を私は知りませんが、ハート・心・魂などという事では無いでしょうか?
 
その本質を「波動(揺らぎ)」によって感じるのだと思います。言葉などは現れの中でも、本当に表面的な現れの末端になるのではないでしょうか。
 
ちょっと面白そうな世界が、また少し目の前に開けたような気がします。