アセンションの時代

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固定観念が世界を狭める

固定観念というものがいかに思考を盲目化させているかという事を痛感させられています。
 
飽きずに飛鳥昭雄さんの本を読み続けています。
 
今読んでいる本には日本の地理的な配置について書かれているのですが、邪馬台国がどこにあるかということについて書かれています。
 
邪馬台国の場所については、中国の歴史書である魏志倭人伝に今の韓国・ソウル辺りからの道のりがかなり具体的に書かれています。では、なぜ未だに邪馬台国の場所について「九州だ近畿だ」と決着がつかないのかというと、魏志倭人伝に書かれているとおりに辿っていくと、陸を船で渡り、海を徒歩で歩いて沖縄辺りに行ってしまうのです。
 
つまり、デタラメにおかしいのです。
 
それについて、日本の歴史家達は記録されている距離感がおかしいのだとか、方向感覚がおかしいのだとか、あるいは記入ミスが連発されているという解釈で、何とか邪馬台国を適当な場所に定めようと四苦八苦しているわけです。
 
その一方で中国の歴史家達は、そんないい加減な距離感・方向感覚・記録で都市を整備し、巨大な国家を統治できるかと、つまり、バカにするなよという思いがあるそうです。しかし、書かれているとおりに辿っていくと、海の上にでてしまう・・・。
 
そこで投げ捨てるような一言から画期的な解決策が見いだされました。
 
日本列島が今の位置とは大きく異なっていたのではないかと!
 
先入観を捨て去り、九州が北に近畿が南に来るように日本を90度回転させるのです。すると、魏志倭人伝に記された行程で近畿地方に到達することが出来るのです。
 
これだけであれば、「へー、不思議だね。」で終わるところなのですが、ナント実際にそうであったことを裏付けるかのような資料や事実があるのです。
 
中国や韓国でその当時から以前に作成された東アジア一帯の地図には、北海道を除く日本列島が90度回転して九州を北にして画かれているのです。
 
しかし、これはあり得ないこととして、最初に画かれた地図が間違えており、以後にそれを参考にした地図が間違えたまま写してしまったということになっているようなのです。
 
さらに九州北部の半島内の地名が例として取り上げられていましたが、地名の頭についている東西南北の方角を示す方角が明らかにおかしいのです。そして、上記に示したように、現在の日本列島を90度回転させるとその方角がピタリと一致するというのです。
 
私達は生物の進化や地形の変動、あるいは太陽系内の構成などは悠久の長い時間をかけて少しずつ平均的に変化・進化していくものだと思っています。しかし、惑星や太陽系というのは私達が思っている以上にドラスティックに変容を遂げ続けているのかもしれません。
 
これだけでは約2,000年前頃に日本列島がどのような配置になっていたのかは分かりませんが、固定観念がどれだけ可能性を狭めているかという事は改めてよくわかりました。
 
与えられたものを素直に積み立てていけば自ずと答えは出てくるのかもしれませんが、固定観念がそれを阻止しているというのは良くある話しだと思います。
 
私達はあらゆる情報を制限・コントロールされた時代を生きてきました。そして、その制限下において染みついた固定観念を通じて世界を眺めています。
 
大陽は核融合反応をおこしているガスの星である。ほとんど全ての人は常識(固定観念)としてそう信じています。しかし、現在の最先端の観測結果から導き出されるのは、地殻を持った超ド級の地球型の星であり、その上空で激しいプラズマ反応が起こっているという、常識とはかけ離れた大陽像です。
 
かつて太陽は火で燃えていると考えられていましたが、それが核融合反応にとって変わりました。そして今また、プラズマに変わろうとしていますが、固定観念によって核融合反応だと信じ込んでいる人々がそれを受け入れられるでしょうか?
 
あるチャネリング情報によると、ほとんどの人々は新しい世界を受け入れることは出来ません。これは何も大陽だけの問題ではありません。あらゆる情報が統制・コントロールされて来たのであり、これからの情報公開において私達はあらゆる世界観を覆されていくのです。
 
それは、学問的な世界の話では無く、日常に密着した身近な問題として怒濤のように及んでくるのです。
 
しかし、多くの人々はどれだけ証拠を提示されてもそれを受け入れようとはしないでしょう。常識・固定観念とはそれほどに強力なものであるようです。
 
しかし、それでも時代は確実に大混迷を乗り越えて前進していくでしょう。おそらく十代・二十代の若者達が新しい時代を引っ張っていくことだろうと思います。それは、彼らの使命なのです。彼らに与えられた義務ではなく、彼らが選択して転生してきた命題なのです。
 
人生において必要なものっていうのは、ガツガツと求めていくものではないのだということが解ってきたような気がします。必要なものは常に目の前に与えられているような気がするのです。好奇心を持って謙虚な気持ちでそれを受け取る事が大切なのだと感じています。
 
私達は必要なもの以外には、何も与えられてはいないのではないでしょうか。