アセンションの時代

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世界の源泉 「己の心を見よ」

己の心を見よ、戦が済んでいないであろ、それで戦が済むと思うてゐるとは、あきれたものぞ」
 
ひふみ神示の冒頭に含まれる一文です。
 
なぜ世界には争いが絶えないのか?それは己の心の中に、消えることなく争いの心が存在し続けているからです。争いの心、それは「分離」に基づく思考です。
 
私は私、あなたはあなた。それを完全に切り離して考える心は、言われるまでもなく分離思考です。小我というか、小さな表面上の我が全てとした思考です。
 
しかし、真実はそれらの全てを総括する大我に目覚めなければなりません。私は私であなたはあなたという小我を、私達は確かに保持しています。それを肯定することは当たり前であり、その小我を否定するのであれば、私やあなたという存在自体を否定することになってしまいます。それは調和的ではありません。
 
では、何が問題なのか?小我を「全て」とし、大我の存在を否定する事が問題だと思うのです。大我の視点に立てば、人類皆兄弟どころか、世界皆私になるのです。それが分離思考を超越した調和思考です。
 
大我の視点を持ち、世界の全てが大きな意味での自分であるのだと知れば、争いはなくなります。奪い合う必要がどこにあるでしょうか?
 
その上で、小我というものを楽しむのです。
 
宗教や時にはボランティアに絡むようなものの考え方の中に、小我を否定するような考え方がありますが、それは大我を否定する事と同様にバランスを欠いた考え方であると思います。
 
大我(世界と自分の一体性)と小我(個としての自分)を伴に受け入れ、それぞれをバランス良く活かしていく事が大切なのです。その時、分離思考が心に存在し続ける基盤が自然に消えていくのです。
 
「悪を抱き参らせる」
 
ねじ伏せるのではなく、受け入れ本来の役割を与えるのです。個人個人としての小我に、本来は悪の要素は無いのです。大我の中で、様々な経験を積むための無くてはならない必須の存在なのです。そかし、それが小我こそが己の全てであると「誤解」していることに問題があるのです。
 
私達の小我の世界においての話しに限れば、「悪とは誤解により生まれている」と言っても過言ではないかも知れません。
 
イスラエルでの危うい情勢を見ていて、フッとそんな事を思いました。
 
調和思考を受け入れるには、私達は戦乱に生きる人々に比べて遙かに易しい環境にあると思いますが、いかがでしょうか?