アセンションの時代

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「知識」と「感覚」の融合

この2~3日で「気」の感覚が変わりました。
 
先日の記事でも少しだけ触れましたが、これまで親しんできた強く細かな痺れと圧力のような中心的な感覚が無くなりました。しかし、強い感覚が無くなったから気が感じられなくなったのかというと、そういう訳ではありません。
 
言葉でうまく表現できないのですが、細かな痺れのような感覚は無くなったものの、圧力のようなものは感じています。ただ、圧力も気を取り込むときには感じるのですが、取り込むとすぐに無くなります。無くなってそこに何もないような感覚が広がります。
 
肉体も気(エーテル体)も、何も無くなってただほんのりとした光があるような感覚です。
 
この何もない光の感覚に意識を集中すると、気の感覚はどんどんそこに吸い込まれて、手や身体の周りから気の感覚がすっかりと無くなってしまいます。気を入れなおせばまたすぐに気が集まってくるのですが・・・。光の中に気を取り込むときに、一定の安定したペースで進めれば何かの拍子に詰まってしまうまでは、そういう事はなくいつまでも気が流れ込み続けます。
 
気が高まってくると、この光の感覚(ほんのりとした光で、強くは感じていません)と関連して、ひじから肩あたりにかけて、繊細な軽い痺れが来て感覚が消えるというのも特徴的な感覚です。
 
それから、気を感じるうえでの要所が、頭部と手のひらだったのですが、それはそれとして残したまま、中心が首の付け根の裏側とみぞおちになりました。まず、首の付け根の裏で感じてみぞおちに取り込むといった感じです。ちなみに光を感じるのはみぞおちです。
 
ただ、これが面白いところで、みぞおちに光のほのかな映像を感じるのですが、その映像がどこに見えるかというと、鼻先あたりに見えるのです。鼻先に見えるけれど、みぞおちあたりの映像なのです。ワカンナイですよね。う~ん、あまり書くとバカみたいかなぁ?(笑)
 
でもいいや、バカついでに買いとこ。
 
どうも、気の感覚も2段階に分かれてくるようです。というか、正確には気の感覚とは異なるさらにひとつ上の感覚があるように思うのです。
 
西洋風に言えば、肉体・エーテル体(気)・アストラル体(光)となるのかもしれません、その上にはメンタル体やコザール体というのもあるようですが。
 
ただ、私的にシックリとくるのは、矢野祐太郎氏の「神霊密書」をはじめとする世界観です。矢野氏は「日月神示」(ひふみ神示の原文)解読の立役者である矢野シンさんの旦那さんです。彼自身も妻のシンさんもともにチャネラーとして神々と会話をしていた人です。
 
その世界観を私の感覚に合わせてみるのなら、肉体は第3密度の限身(かぎりみ)、気は第4密度の駆身(かけりみ)、そして光は第5密度の耀身(かがりみ)です。
 
限身は物質的な肉体であり、駆身は霊的(異なる次元の)肉体です。
 
それに対して耀身は、肉体ではありません。それは光を放っており何というか肉体という乗り物を有していないという事だと思うのです。むき出しの霊とでもいうのでしょうか。
 
そうした世界観で気を感じると、感覚がスッとまとまるのです。
 
「バシャール」は第4密度の駆身として存在しており、現在は肉体的(第4密度における)でない存在として第5密度へアセンションする過程にあると考えられます。バシャールの言う事がとても良くわかり易いのは、私たちと密度が近いからなのであろうと思います。
 
第5密度の上にも矢野氏の世界観では第7密度までが存在するのですが、実際にはそれらはもっと細かく細分化することが出来るようです。そうしたかなり上の密度からのチャネルや神示の場合は、その霊的な存在が、この第3密度の次元世界に合わせた言葉に置き換えてメッセージを伝えるのにかなり苦労するようです。
 
それはともかくとして、こうして知識遊びが感覚遊びと融合してくると、何かワクワクとしてオモシロくなってきます。
 
いつも言うように、それで何か特別な芸が出来る訳ではないですが。(笑)
 
気を集めるときに、これまでは目をつむっていた方が感じやすかったのですが、目を開けている方が感じやすくなってきました。少しだけですが、気を空気のような感じで感じ始めているからのような気もします。
 
まさに文字通り「気のせい」ですが。(笑)