アセンションの時代

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「結果へのこだわり」がストレスを生む

私たちは、習慣的に結果に囚われることに慣らされています。
 
テストでは何点以上を!マラソンでは何番以内に!
 
その考え方は何を生み出すのでしょうか?答えはストレスです。
 
人は結果に囚われることにより、多大なストレスを背負い込むことになります。
 
「こうでなければならない」と結果を決め込んで、勝手に自分を追い込み自ら自滅の種をそこかしこに撒き続けるのです。
 
本当にそうでなければならないのでしょうか?
 
人間関係のつまずきの多くも、結果を相手に押し付けることによって生じてきます。
 
「こうしなければならない。それなのにあいつは!」
 
本当にそうしなければならないような事なのでしょうか?多くのことは、どうでも良いことだと思うのです。
 
しかし、私たちは悲しいかな、結果に囚われる習性によって、勝手に好き勝手な結果を相手に押し付けあって互いに自滅していくのです。その極め付けが、自分に対する結果の押し付けです。
 
本当にそんなにも結果が大切なのでしょうか?
 
なぜ、そうでなければならないのでしょうか?
 
全てがどうでもよいと言っているわけではないのですが、あまりにもどうでも良いことにまでこうでなければならないという結果を設定してしまう私たちの修正は、果てしの無いストレスを生み出します。
 
私たちは結果を設定してそれに囚われて生きてきましたが、底に生まれたのはストレスと言う不協和音でした。
 
これからは結果に囚われる必要はないのではないでしょうか?
 
結果を楽しめば良いのです。今に集中してもちろん頑張って生きます。その結果について、どうならなければならないと囚われる必要はないのです。結果は結果です。たとえどんな結果になったとしても、それを受け入れて、新たなる結果としてのその今を楽しんでいけば良いと思うのです。
 
そして、今に集中するとは、過去・現在・未来を一体として捉えた上での今この瞬間なのです。
 
今がよければ、先のことなど考えずに、とりあえずそれで良いというのとは違うんですね。
 
今が理想の未来と一体になり繋がった状態でなければならないのです。未来は知らんけれど、今が楽しければよいというのでは、放蕩者になってしまいます。
 
そして、ここでいう理想とは、自分の状態のことをいうのです。物理的環境とするのなら、それはやはり「結果への囚われ」になってしまうのです。そうではなく、自らの人間性としての状態をいうのです。
 
それさえシッカリと捕らえていられたのなら、そこに引き寄せられてくる物理的な結果にはこだわる必要など無く、喜んで受け入れ楽しめば良いのです。
 
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