アセンションの時代

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アセンションと「二元性(精神と物質)の統合」

あるチャネリング情報によると、キリストや仏陀は本当の意味で悟りを開いてはいなかったそうです。
 
彼らは悟りを達観した、つまり「感じ取った」ようなのですが、真に悟りを開けなかった理由がそこにあります。
 
悟りとは本来、考え理解し言葉として人々に伝えられる状態で説明することが出来るものなのです。しかし、多くの宗教書などでは最終的な究極の目的とする「悟り」の状態は、その人だけが感じ取るものであって、言葉として人々に伝えられるものではないとされているようです。
 
その理由は科学の未発達にあったと言えます。千年、二千年前は、まだまだ科学が未発達であったために、悟りを説明するための言葉や知識がありませんでした。だから、感じ取ることは出来てもそれを理解し説明することが出来なかったのです。
 
しかし、20世紀の科学の急速な進歩により、現代はキリストや仏陀の時代とはまさに「時代の持つ力」が違うのです。
 
例えば、相対性理論が言わんとしている事を興味を持って調べて見れば、時間とは何たるか?空間とは何たるかを理解するための大きな情報を得ることが出来ます。
 
また、量子論が言わんとしていることを興味を持って調べて見れば、物質とは何たるか?存在とは何たるかを理解するための大きな情報を得ることが出来るのです。
 
人間の内面である精神世界も、外面である物質世界もどちらも真実であり大きくは繋がった1つの存在です。
 
その存在を知ろうとしたとき、まず形として見えて調べやすい物質世界から取りかかるのが効率の良い手順だと言った哲学者がいたそうです。デカルト?だったか、違ったかも知れませんが。
 
それがいつしか、内の世界と外の世界は完全に分離されて、宗教等と科学のように完全に切り離された扱いを受けるようになってしまったのは大きな誤りであったのです。
 
しかし、科学は量子論によって物質世界を追究しながらついにその延長線上に精神世界を発見した、あるいはしつつあると言えます。
 
科学と精神の再統合です。
 
アセンションを精神論のみで捉えるのも、科学(次元・波動等)のみで捉えるのも、いずれも片手おちであると言えます。
 
精神と物質という、一見両極に思える二元性を、統合して一体的に捉えてこそ、アセンションへの理解が深まるのではないでしょうか。