「新世界」へ開かれた扉
昨日も午前中は頭痛で頭を抱えていました。この1週間は本当に、「気の強い集中」「頭痛」「何とか強い気をこなした感じ」が繰り返し続いています。
昨日は午前中から名古屋への出張に出かけ、早めに出かけて昼前には熱田神宮内の裏道で日向ぼっこをしながら頭を抱えていました。
そうしたら、頭痛が治まってきました。その前の頭痛では、自然の多い外の道を歩いていたら直ってきました。
どうも、自然の中にいると気が馴染んでくる感じがあります。室内では全然ダメなんですよね。
昨日の頭痛明けから、身体の前面の気が外の気と繋がりました。これまでは、身体の後ろ側は全面的に外と繋がっていたのですが、前は身体内と外とで境があったのです。しかし、それが無くなりました。
より、自分の気と世界の気との一体化が進んだ感じです。
「対化の等化」という発想がかなり役立っている感じで、感覚的にもさらに馴染んできている気がします。つまり、自分と外の世界(光)との一体化が進んでいるという事です。
目に移る景色も、自分の心の中の風景として受け取ります。普通は焦点を合わせて点で見ると思いますが、その時には基本的に面として全体で感じ取ります。
一般的には感覚的な話しと思われると思いますが、自分的には理論的・物理的にそれを感じ取っているつもりなんですね。その理屈理論の上に、気の感覚が乗っかってきている感じです。
目に見える世界とはまったく異なる感覚で世界を感じ取ってみたりしています。まだ、単なるイメージだけの問題とも言えるかも知れませんが、気の感覚が強くそれに反応するので自分的には心強いところです。
私が神社を好きな理由の1つとして、風景に奥行きを感じやすいという事があります。私が自分と世界を等化させる時にはその奥行き、つまり空間を無くすんですね。現実の風景を写真や画像のように平面的に受け取るのです。
そのゼロにした空間に満ちているのは、光なんですね。光は時間を持っていないんです。私達の視点からは、光は光速で時間をかけて動いているのですが、光自身の視点からは時間は存在していないんですね。
だから、私と光が等化すれば時間は無くなり、従って空間も無くなる訳です。
さらに、その時に見えている世界というのは人の目が写し出したエネルギーの一側面であるわけで、個としての自分とそれを包み込む世界との間に映し出されたものであるわけです。
それらを等化、つまり一体化させれば映し出されている現象は大きな意味での自分の内に映し出された、自分の一側面であるわけです。
そして、そこにどのような意味を与えるかは、小さな自分つまり個としての自分に与えられた特権、「自由意志」と言う事になるのです。
それを「感じる」のです。こうした思考ゲームは大切な一歩となりますが、それだけで終わらせては意味がないのです。それを感じ取って活かしてこそ、はじめて世界は大きく開けるのではないでしょうか。
昨日そうした視点から感じた熱田神宮の風景は、これまでとはまるで違う世界でした。それは心の中に広がる風景であり、文字通り神聖な場所でした。
今はまだ、そう意識して集中しなければそうは見えませんが、それを日常的な感覚として感じられるようになってきたら、チャネリングで良く言われているように、私達には実はとてつもない自分の世界への影響力が秘められているのかも知れませんね。
それが真理へと繋がるのか?錯覚なのか、妄想なのか?さてさて、どうなのかは分かりませんが、チャネリング情報で言われる現世界の超特殊性を信じて、こうした世界観を模索するのって凄くワクワクしてきます。
私の場合、気の感覚がその世界観をサポートするように強まり拡大していくのが、心強いです。
ただ、相変わらず何の芸も出来ませんが・・・。(笑)
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