アセンションの時代

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多重な重なりとしての1つの焦点

頭痛なおりました。昼休みに、近くの山の中のチョットした広場へ行ってきました。
 
ここ最近の頭痛の繰り返しの中で、自然の中にいると頭痛が治るという事に気付いたのです。そこで、昼休みにパンを買って、近所の山の登り口にあるチョットした広場へ行って来ました。
 
建物の中にいると、気が籠もったような感じで変に前頭部に集中してしまうのです。そして、頭痛です。
 
しかし、自然の中に出ると、その気がフワーッと周囲一体に柔らかく広がるんですね。そうすると少しずつ頭痛が和らいで頭がスッキリしてくるんです。
 
1つには実際にその場に存在している気が、人工物に囲まれた中と自然の中とでは異なるという事があると思います。
 
それから、もう1つには自分の気の持ちようが、環境の違いによって違ってくるという事もあると思います。閉鎖的に囲まれた場所で機器の音に囲まれた状態でいるのと、開放的な自然の中で木の葉のざわめきや小鳥たちのさえずりに囲まれているのとでは、自然と自分の「気」にも閉鎖的・開放的の違いが出てくるのだと思います。
 
そして、広場から駐車場へと戻る小道を下りながらフッと感じたことがあります。それによって気の偏りも一層和らぎました。
 
それは、個々に気を感じるのではなくて、個々としての気を認めながらも全体として気を感じるという事です。
 
例えば、山を歩いていてこれまで多く感じていたのは、まずは自分の気、そして大樹の気でした。しかし、小道を下りながら周囲一体の木々のざわめきを感じていたら、個々の気ではなくて、それらの総体として織りなされているその場の気が感じられたのです。
 
その時、自分の中に偏っていた気がスーッと一体に馴染んでいったのです。
 
その場全体の気の中の一部として自分の気を感じたんですね。
 
「自分」「大樹」「鳥」「社」「特定の場」等々をバラバラに切り離された別物として感じようとする傾向があったように思います。
 
だけど、実際にはそれらは確かに個々の気を持っていると思うのですが、それは、物理的なそれらの内に籠もっておわりというものではないんですね。
 
言うまでもない事かも知れませんが、気は物質的枠組みを遙かに通り越して存在しているんですね。だから、私の気の領域の中には、周囲の様々な気が幾重にも重なって存在していると思うんです。
 
だから、それを「私」という個でのみ気を感じようとするのは間違いではないけれど、正しくもないと思うのです。
 
より正確に言うのであれば、「私の気」いう場に多重に重なっている多くの気の「私」という焦点を感じる事がより正しいのではないかと思います。
 
全てのものは、目で見えるようにまったく切り離されて個別に存在しているのではなく、多重の領域において密接に深く繋がり重なり合っているんですね。
 
それを気の領域から感じ取るという事だと思うのです。
 
これを書くとおかしいと思われるかも知れませんが、自分と光(現象世界)を等化すれば、自分の影響力は自分と繋がる光の存在する場所全てに及ぶと思うのです。
 
時間や空間という錯覚の中では突拍子もなく思われるかも知れませんが、自分と光が等化している世界では、いわゆる時間と空間は存在していないんですね。だから、驚くような事でもないんです。だから、パラレルワールドという世界も成り立つ訳なんですね。
 
何はともあれ、やっぱり頭痛には自然浴が効果的である事を確認出来ました。
 
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