アセンションの時代

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気の「入口」としての身体

昨日から今朝まで、また頭痛で寝込んでいました。やっぱり、季節的な要因があるのでしょうか?昔から圧倒的に頭痛が多いのが春。次に多いのが秋で、冬と夏はあまり頭痛で苦しんだ記憶がありません。
 
ここ数年は年間を通して、あまり頭痛で苦しむ事が減っていたのですが、今年は久しぶりに頭痛の多い年になっている感じがあります。そして、昨年秋以降の頭痛の特徴は、頭痛後に気の感覚が強くなることが上げられます。それも、一時的ではなく、その後に継続する感覚上昇です。
 
それにならってか、今日も気の感覚が今までに無く強くなっています。
 
最近は自分の身体の中の気が高まっているというよりは、自分の身体を通して自分の視覚的世界の気が高まってきているという様な感じになっていました。
 
これは、自分(意識)と世界(光)を「対化の等化(それぞれを表裏として一体的に感じる)」することによって、その一体的世界を自己のパラレルワールドとして捉えるという考え方の影響が大きいと思います。
 
その様に光ベースの世界を1つのパラレルワールドとして捉えるために、その外側、つまり視覚外に新しい宇宙を感じ出すことになります。
 
実際にはその世界はどこまでも多次元であるわけですが、人間という受信体の能力的な問題から差し当たってそれをエーテル体あるいは気を中心とした世界として捉えます。
 
そうすると、身体を入口として自分の背後から視界的世界へと気が入り込んでくる訳です。
 
つまり、身体を通して自分の背後のエーテル世界から、自らのパラレルワールドへと気を流し込みます。そうするとパラレルワールド全体の気が上昇します。
 
そのパラレルワールドとは、自らの捉えた光(視覚的世界)と自分(意識)が対化の等化により一体化しているものですから、結局は自らの身体を入口として自らの気を高めたことになるのです。
 
それは「自分=身体」ではなく、「自分=世界」という捉え方なんですね。
 
そういう世界観の中で、どうも頭痛が起きるときと言うのは、エーテル的な外の世界から身体という入口を通ってパラレルワールドへ流れ込む「気」が、入口の通過能力をこえたために一時的に詰まってしまったような感じなのですね。
 
従って、頭痛というのは、詰まった気を順次通過させていく事と、入り口の性能を少し上昇させることによって解消されていくような感じです。
 
例えば、今日書いた記事というのは、これを書こうと思っていたわけでもないし、理屈的に考えて書いている訳でもないんですね。感じたことをそのまま文字に落としているだけなんです。
 
だから、自分で書いていながら、こうして文字にしてみると「ああ、なるほど。」と頭で理解する事がよくあります。何となく感じて感覚的に捉えているのですが、文字にすると整然として感じられます。ただ、物足りない感じにもなりますが。
 
最近は、仕事でもよくそう思うことがあります。何日も議論を重ねて、結局何にも進んで行かなくて批判しあっている人達がいるんですね。意見が出るたびに、批判される可能性を探し出しては批判しあっているんですね。
 
何も難しい議論をしているわけでは無いんですね。簡単な問題なのに、批判される可能性を見つけ出してはドンドンと問題を難しくしてしまっているんですね。そうした人達にとっての答えは、役職的に上の立場の人間の意見なんですね。
 
だから、自分たちでいくら議論しても答えをまとめられないんです。
 
偉そうに書く私自身も大差ないわけですが、そういう状況を一歩下がったところからユッタリと眺められるようになったことや、自分が部分的にそうでは無くなり始めている事を思うと、気の密度の上昇と考えるから感じるへの転換が順調に進んできているなぁと思えてきます。
 
以前なら、「何でそうなんだ?そうじゃないでしょ、こうでしょ。」とムキになって「考えて」いましたからね。