アセンションの時代

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全てはパーフェクト・・・という事は

創造、つまり私達が感じている(さらには、感じてない世界も含めて)全ての世界の現象には、一切の無駄はなく全てはパーフェクトに存在している、というのはこの世界の真理です。
 
ここでは深くは触れませんが、こうしたメッセージがチャネリング等で伝えられると、必ずと言って良いほど投げかけられるのが、「戦争は?」「殺人は?」「幼児虐待は?」といった疑問です。
 
しかし、そうした疑問にもこの真理は当てはまるのです。それすらもパーフェクトなのです。
 
ここで早とちりしてしまうと、これは「偽のチャネリング情報だ」「人類をコントロールするための闇からの情報だ」となってしまうかも知れませんが、もしそう思われた時には次の点に注意してよく考えてみて欲しいのです。
 
「パーフェクト」とは何に対して、何のためのパーフェクトなのか?
この物質次元が存在の全てなのか?それともこの世界は数ある学び場の1つなのか?
 
さて、ここで少し論点を移します。パーフェクトだという事を受け入れたとして、考えを進めてみたいと思います。
 
アセンションを意識して取り組んでいる、あるいはそれを意識しなくとも自らのスピリチュアル的な成長に取り組んでいる人というのは、「エゴ」「マインド」「肉体」の自分勝手な主張をコントロールあるいは押し込むのに苦労していることが少なからずあるのではないかと思います。そして、「ハート」「直感」を何とか上手に引き出そうとするのです。
 
少なくとも私は、「マインド」と「ハート」の区別もハッキリしないままに、それでもおそらく「マインド」が足を引っ張っているのだろうと感じ、何とか「ハート」を引き出せないものかと苦労してきました。
 
しかし、こうした考えは、「全てはパーフェクトである」という真理に反するのですね。なぜなら、「マインドは無駄なもの」という考えが暗に存在しているからです。
 
では、どう考えると、よりパーフェクトな世界の真実が見えてくるのでしょうか?
 
基本は簡単です。「全てはパーフェクト」つまり、「マインドはパーフェクト」なのです。「エゴもパーフェクト」「肉体もパーフェクト」なのです。
 
では、私達は先に書いたように、なぜそのパーフェクトなマインド等を相手に苦闘しているのでしょうか?
 
つまりはこういう事です。
 
例えるなら、私達は「目」に音を聞け。「鼻」に物を見よ。「耳」にニオイを嗅げと言っているのです。目も鼻も耳もパーフェクトな感覚器官です。しかし、それはそれらの各器官が、本来与えられた役割を求められたときにのみパーフェクトに機能するのです。まるで、トンチンカンな事を求めて、「全然、パーフェクトではない。何とかこれを排除しなくては。」と必死になればなるほど、パーフェクトからは遠ざかっていきます。
 
つまり、私がこれまで苦しんできたのは、そういう事なのです。
 
「マインド」にも、「肉体」にも、「エゴ」にさえも、それぞれが持っているパーフェクトな役割があるのです。しかし私はこれまで、それらの全てに「ハート」としての役割を与えてきました。つまり、それぞれが「我こそが自己の最も深遠な声を伝えている。」という主張を認めてきていたのです。
 
しかし、「トータルな自己」の「最も深遠な声」を伝えているのは、実は「ハート」だったんですね。
 
ところが、「ハート」の声は小さく、これまで「気のせいだ・根拠がない」として排除していたものなのですね。そして、声の大きな「マインド・肉体・エゴ」に「ハート」の役割を求めていたのです。
 
それらは、全てパーフェクトなんですね。ただし、それぞれに与えられた役割を求めた時にのみパーフェクトなんですね。
 
私達は、何を「切り捨てる」必要も、「押さえ込む」必要も、「黙殺する」必要も無いのですね。
 
ただ、全てに「本来与えられている役割を求める」だけなんですね。
 
「マインド」も、「肉体」も、「エゴ」も、明らかに私達のパーフェクトな一部なのですね。
 
否定する必要はないのです。
 
私に必要であったのは、監督の役割を「ハート」に任せて、「マインド」「肉体」「エゴ」等々のあらゆる才能を「(1人の)人間というチーム」の適材適所に配役するだけの事だったんですね。
 
はじめから全てはパーフェクトであった訳なんですね。
 
ただ、トータルでバランス良く機能していませんでした。しかし、それこそが「魂の学びの場」として究極にパーフェクトな学びの機会であった訳なんですね。