アセンションの時代

2019年4月以降の主な更新はhttps://sunamibaku.blogspot.com/へ移転してます。

「する」と「いる」

これまでの私たちのいた3次元でいう「する」というのは、5次元の世界では「いる」という事を意味するそうです。
 
これらは自分と世界の間の相互作用を、どう受け止めるかというその解釈の違いからくる相違だと思います。
 
「する」というのは、世界に対して働き掛ける事です。極端に例えてみます。
 
「世界」というのは、自分を映し出している「鏡」なんですね。私たちは世界を通して、自分自身を見ているのです。
 
そして、鏡に映った自分を見て、色々と感じるわけです。あそこが違うな、ここを変えたほうがいいな・・・と。
 
そして、私たちはそれを直そうと一生懸命になって働き掛けるのです。「鏡」に向かって。
 
・・・でも、鏡に向かって自分を変えようとしても何も変わりませんよね。
 
鏡の自分(世界)を変えたいのなら、本当の自分を変えなければならないのです。
 
「する」というのは鏡の世界への働きかけで、「いる」というのは本当の自分への働きかけです。
 
ただ、これは極端な例で、まるまる額面通りに受け取られてしまうと誤解もあるかも知れません。
 
3次元、あるいは私たちがすでに移行しつつある4次元では、5次元との比較において、まだまだ格段に物質的な縛りの強い世界であります。だから、上で書いた意味において「いる」ことはとても大切ですが、それだけではもちろん完結できません。まず第一に「いる」、そしてそのあとでやはりその結果を「する」必要はあるのです。
 
「いる」とは、インプットであり外から入ってくる情報を内面においてどう処理するかという部分を大切にすることです。夕日を眺めている時、太陽をもう少し沈まないように止めておこうとか、外の世界(太陽)に働きかけることはありません。しかし、夕日の美しさや、波の音、かすかな雲と海上を横切るカモメ達。ジッと立って夕日を眺めているだけですが、多くの事をインプットし自分の中で世界という自分を感じ取っているのですね。
 
仕事などで時々、集団で旅行に出かける事があります。
 
例えば東京スカイツリーに昇る。弥勒菩薩を見に行く。等々いろいろある訳なのですが、例えば弥勒菩薩の場合、嵐山からタクシーで広隆寺まで行って参拝料を払って、弥勒菩薩の前へ行き「はぁ~これが弥勒菩薩かぁ。」と見上げます。そして、振り返るとみんな出口から出ていくところです。(笑)
 
おいおい、待て~。何しにここへ来たんだよう。(涙)
 
スカイツリーでも上がった瞬間に、クルッと周りを見回して、「よし着いた。さあ、次。」って感じで下りのエレベーターにサッサと向かっていくんですね。
 
個人的に大阪の通天閣へ昇った時には、通天閣はいついっても行列なので、また今度と行列嫌いの私はいつも下まで行っては帰っていたのですね。
 
しかし、これではいつまでたったも昇れないと思い、ついに諦めて列に並んだんです。展望室へたどり着くまで1時間半くらいかかったでしょうか?まさか、そんなに待つと知っていれば並ばなかったのですが、通天閣って建物の中も階上のエレベーターまでグルグルと長い列になってるんですね。
 
それでようやく展望室について、さあ待たされた分、しっかりと景色を眺めていこうとしている後ろを、一緒に昇ってきたおじさんたちが、「さあ、次はどこにいく?」と言って下りのエレベーターに向かっていくのです。すでに心は通天閣を降りてしまっているんです。
 
「今、この瞬間」に存在していないんですね。常に次、次、次・・・・。そして、「する」事ばかりで「いる」事がないんですね。アウトプットばかりでインプットが無いんです。
 
アウトプットが不要だとは言いませんが、私たちはこれまで目に見えるものにこだわり過ぎてアウトプットに囚われ、インプットしてからの内面世界をあまりにも疎かにしてきてしまったのだと思います。
 
「する」と「いる」
 
面白い発想だなぁと思いました。特に「気」を感じコントロールする上では重要な視点だと思いました。「する」という発想を持つと気が偏って力みが生まれるんです。「いる」ことに集中すると、「気」は大きな広がりを持ち強く安定を保ちます。
 
ボチボチとね、そんな世界へ向かっていきたいですね。それぞれのペースでゆっくりと。
 
イメージ 1
 
 ← ポチッとクリックお願いします♪