アセンションの時代

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驚くほどのアレルギー

子供と一緒にアニメ等を見ることは時々あるのですが、基本的に私はテレビを見ない人なんですね。
 
携帯電話も、今年に入ってから家庭の事情により(笑)仕方なく持ってはいますが、ほとんど使ったことは無いんですね。新聞も取ってはいませんし。
 
そういう意味では、やっぱりちょっと変わった人なのかも知れませんね。今さら言うまでもありませんが。(笑)
 
所がそのテレビの番組に関して、自分でも驚くほどに強いアレルギー反応が出てきていることに最近になって気付きました。
 
それは「ニュース」や「報道番組」等に対してなのですが、しつこいほどの「殺人事件」や「死亡事故」に対する報道を見たり聞いたりし続ける事がどうにも耐えられなくなったんですね。
 
おかしくなってしまったというよりは、「健全」になれたと考えた方が正解だとも思えますが、今までどうしてあんな報道をそれ程の抵抗もなく見たり聞いたり出来ていたのかが、本当に不思議です。
 
見るのが嫌だというよりは、身体がムズムズしてどうにも見ていられないんですね。
 
交通事故死亡者数年間「約1万人」。自殺者数年間「約3万人」。この膨大な件数の中から、適当にかいつまんで大手マスコミや国営放送NHKのゴールデンタイムのニュース番組のトップに取り上げられているんですね。
 
それが日本人の教養を支えているんですね。(笑)
 
他にまともなネタは無いんでしょうか?
 
まあ、それは例えば株主のそのまた株主だとか、大口の広告主だとかを遡っていくなり、社会の権力・支配構造が解ればそうした傾向にも納得のいくことで、今さらそんな事をブログでどうこうと取り上げる事はしません。
 
今日のテーマは、そうした報道に対するアレルギー反応。それも、思考的な要因からのものではなく、おそらくは波動的な要因からのアレルギー反応が自分でも驚くほどの強さで現れてきているという事です。
 
思考的要因というのは、頭で考えてこれは嫌だと判断して拒絶するという感じです。それに対して、波動的要因というのはこの表現が適しているかはわかりませんが、理屈・思考ではなくてとにかくウズウズ・ムズムズしてじっとそれを見て聞いていられないといった感じです。
 
なぜ、テレビを見ない私が、そんな場所に居合わせる事があるのか?実は、うちの父親がそういうの大好きなんです。(笑)
 
かわいそうな気はしますが、彼の場合は頑なに強くそれを選択することを決断しているため、その決断が彼の内側から解かれるまでは、手の出しようがないんですね。
 
ネガティブな選択をしている人が、どういう過程を辿って自ら落ちていくのか。どういう心理状態でそういう選択をしてしまうのか、という事をこんなにも近くで教えてくれていることには、本当にソウルメイトとして感謝の気持ちでいっぱいです。
 
本当にそういう人達というのは、「自ら」すすんで落ちていくんですね。
 
周りから見ていると本当に不思議だと思うのですが、彼らの逆回転的な心理は、大空に羽ばたくような錯覚の状態で真っ逆さまに自ら進んで下へ下へと羽ばたいていくのです。
 
結局それは、「比較」による落とし穴なんですね。
 
周囲の不幸(上記の例に当てはめれば、死亡事故や自殺のニュース)と比較することによって、自分の幸せを確認するんですね。その本質は、周囲が不幸になればなるほど相対的な比較によって、自分が幸せになれたかのように錯覚するんですね。
 
しかし、例え表に出さなくても、人の不幸を待っている人は本質的な幸せにはなれないんですね。そんなことは、子供達はみんな知っているくらいのレベルの問題なのですが、ナント大人は「競争社会」にもまれた結果として、それが解らなくなってしまっている人が意外と多いんですね。
 
それ以前に、魂が今回の人生の経験としてそれを選択してきているという捉え方も一方にはありますが。
 
誰もがその本質には神の光を持っており、人生に現れるこうした経験の違いは、魂のレベルでの選択の問題であり、優劣とは何の関係もないんですね。
 
父は私に、ネガティブな者のたどる道を目の前で見せてくれるという事に、魂のレベルで私と合意しているソウルメイトなのですね。
 
出来ることなら、彼が見事に方向を変えて復活するところまで付き合いたいものですが、現状を見る限りではそこまでの合意と彼の選択はないようです。
 
なんか、話しがそれましたね。(笑)
 
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