アセンションの時代

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大切な違い

以前から色々な場面で議論を進めていくときに、ちょっと要点がゴチャゴチャに押し流されてしまう様なことが多々ある事が気になっていたので、それについて書いてみたいと思います。
 
例えば、自分やあるいはある人の、物事の考え方などについて議論しているとします。
 
【個人の選択を認める】と言うことと、【その選択を肯定する】という事はまったくの別物だと思うのですが、その辺の区別がなかなか相手に伝わらないことが多いです。
 
「その選択はベターではないと思うけれど、その人の選択として認め尊重するよ。」という考えがなかなか人に伝わらないのです。
 
なぜか、「その選択はベターではないと思う・・・」という所だけに焦点が集中してしまい、あたかも「その人が否定された」というように捉えられてしまって、表現の仕方が不味かったのだろうと思って、その部分を説明し直してもなかなかそういう考えを理解してもらえないのです。
 
この場合、私の中では「個人の選択を認めている・ただその選択を肯定してはいない」のです。その方法はベターではないと思うけれど、それもまた数ある中の1つの方法であるから当人がそれを選択するのならそれも尊重されて良いと思うよ。
 
という事なのですが、どうでしょう?私の言いたいことが皆さんに伝わっているでしょうか?
 
これは特にことあるごとにそういう訳ではなく、特に何か議論になったようなときの話しであり、普段は「いいんじゃない。」くらいで流れていく事なのですが。
 
多分、私の場合、「視点」がズレているというか異なっているのかも知れません。そういう議論をするときに、自分(個)の視点から考えるのではなくて、もちろんベースとしての個はあるのですがその外から全体に共通する法則のようなものを求めて議論する傾向があるのかも知れません。
 
だから自分としては、あなたにも私にも当てはまるある意味で法則的な基準からするとこうなんじゃないか・・・、というように私たちに「共通の法則」についてお互いの意見を出し合って話しているつもりなんです。
 
ところが人によってはそれが、「あなたの考え」が「私の考え」を否定した。となってしまうんです。
 
個に囚われずに全体を見たがる人は、私が話すと聞き入って来て色々な意見を催促してくるのですが、そうでない所から見ると「何かエラそう」に見えてしまうようで、ましてや肩書き等に飾られて自分はエライと思っている人たちには、私の存在自体がたまらないアレルギー反応を呼び寄せるようで、それはそれで見ていて楽しいのですが。(笑)
 
それはそれとして、アセンションは全体においても「各個人においても」均一的に進んでいくものではないんだなぁと感じています。
 
あの人は進んでいて、この人は遅れているというそういうものではないんですね。
 
もちろん、ある意味においてはそういう部分もあるのですが、実際にはその個々人の内面においても色々な要素が絡み合っている訳で、波動を高める要素も逆に下げてしまっている要素も同じ1人の人間の中で複雑に絡み合っているんですね。
 
もちろん、私の中にも進んでいる部分と足を引っ張っている部分が、複雑に絡み合っています。
 
例えば、「全体の法則を求めて議論する」というのと、「上から目線でエラそう」に見えることとは表裏一体で、ある程度は自分の心がけと態度でカバーできても、結局、エラそうだと見るのは相手な訳で相手の心理状態による部分も大きいんですね。だから、結局は自分だけでその表裏一体を完全に解消することは出来ないんです。
 
また、それを求める必要もないと思います。自分はそういう意見を受け止めて、自分なりでキチンとそれに配慮すれば、あとは相手の問題だと思うんですね。
 
結局の所、「進んでいるのは本当の自分を出せている」であって、「足を引っ張られているのは本当の自分が出せていない」部分だと思います。
 
「本当の」とは、誰もが自らの内に寝かしつけてきた、崇高な真実である、光としての自分です。
 
そして、これは私がそうだというのではなく、誰もに当てはまる法則なのではないかというのが私の考えです。
 
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