アセンションの時代

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微笑んでいたいですよね♪

基本的な意味で誰にでも当てはまるであろう話しとして、誰でもみんな、楽しく・笑いながら毎日を生活し、いつでも微笑んでいられるような状態にありたいのではないだろうかと思うんですね。
 
怒っている人も、何かを批判している人も、きっとそうなりたくて必死なんだと思うんです。
 
でも、結局のところ、怒りは怒りを呼び、批判は批判を呼び・・・・、人類は延々とその堂々巡りを続けて来たんですね。
 
実際の所、怒りや批判というのは、自分の押しつけなんじゃないかなって思うんです。「私の考えでは」こうしなければいけないのに、何であなたはそうなのか!と。
 
でも、何でそうなのかと言われれば、その人はトータルな意味でそれが良いと思っているからそうなんですね。
 
自分の考えを伝えるという事は、お互いのために良いことだと思います。伝え方にもよりますが。
 
でも、伝えた結果、相手が自分と同じ選択をしないからと言って、相手に当たるのは違うと思うんですね。その人はその人の人生を生きているのであり、その人の枠の中で最善の判断をしているんですね。
 
お互いに考えを伝え合う事は大切だと思います。その上で、お互いの選択を尊重しあうという事もとても大切だと思うんですね。
 
だけど旧来の価値観が振り落とされようとして混乱するこの時代にあって、「違いを認めて受け入れる」という事がなかなか難しくなっている気がします。
 
私の周囲でも、ムードメーカー的な存在でいつも明るかった人が、ここのところ色々な事に対して必死に批判を繰り返してストレスを溜めて居るんですね。
 
その人の言っていることについては、私ももっともだと思うんです。だけど、効率的に目的に向かうその方法が唯一の選択肢なのではなくて、あっちこっちと遠回り寄り道しながら目的に向かうという選択肢も含めて、選択肢は人の数だけ存在するんですね。
 
言うことを言って伝わらないからといって、怒ったり批判したりしても状況は悪くなるばかりなんですね。結局は、相手の遠回りを認めてあげるしかないんですね。お互いの立場や役割にもよりますが。
 
自分の考えを伝えて、それでも変わらなければ、「そのままいくと、こういう事で困るかも知れないから気をつけないとね。」と微笑みながら、その選択を認めてあげれば良いのだと思います。
 
そうすれば、実際にそうなって困ったときには、相手も「あれっ。言われた通りになっちゃった。」って苦笑いしてこちらの意見を聞き入れやすいと思うんですね。
 
でもその前に、怒られて批判されていれば、そこに「意地」や「プライド」という問題が立ちふさがりますよね。
 
怒ったってろくな事は無いんですね。批判も同じです。
 
いつでもニコニコと自分の奥深くから微笑んでいられたら、素敵ですよね。
 
PS: ひとつ付け足しておきたいのですが、「相手の選択を認める」という事は、「相手の依存に応える」と言うこととはまったく違う事です。相手が周囲への強い依存を手放さないのであれば、「そうした選択を認め、それによる結果を経験することも認めてあげる」ことだと思います。依存に応えることが相手を認める事ではないんですね。それを間違えて自分が潰れてしまっては・・・・ねぇ。
 
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