アセンションの時代

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なぜ怒れるか?

私の職場で、職場に対する考え方が比較的私に近いお姉さん(と言っても40を越えた私から見てですが)はいつも上司等に対して怒っており、それについて私と良く話すことがあります。
 
基本的な話としては、お姉さんの言い分としては「上司が自分の考えを持っていない」ので、それをするとどうなるかを考えれば簡単に解る問題点にまるで気づかず、説明しても理解せず出来ずにそのまた上の役員等に言われるままに何の調整もせずに実行しようとするのですね。
 
そして、案の定あちこちから問題が噴出して、「なんでだろうなぁ。」と的外れな「反省のふり」だけをして、また次々と同じ失敗を繰り返していくんですね。
 
「考えない」「考えられない」「言われるがまま」という主張をして、「考えなさい!」と怒っている訳なんですね。
 
だけど、そろいもそろって上にそういう人がそろっているので、変わらないんですね。
 
そこで、お姉さんと話すんです。
 
多分それは「考えていない」のではなくて、「考えた末の結論がそうした行動に現れている」んだと思うよ、と。
 
考えていないのなら、頭の中は白紙の状態ですから、こう考えれば解るでしょと言い方に気をつけて伝えれば伝わりやすいと思うんですね。お姉さんはそうだと思ってるんです。
 
だけど、実際にはそうではないんじゃないかなぁと、私は言うんですね。考えていないかのように思えるけれど、実はその人達なりに考えて「とにかく上には従う」という結論を出していると思うんですね。だから、白紙からのスタートではないんです。
 
出された結論と、その結論に至った思考の過程を根本的に組み直さなければ、人の行動が変わることはないんですね。
 
もともとに、似たような思考の過程を辿って最後に異なった結論を出しているのであれば、お互いにパッと「気づき」を与え合って意見交換することで、簡単に合意を導き出すことが出来るでしょう。
 
しかし、思考の過程からしてかなり異なった道を辿っている場合、つまり、お姉さんと上司の場合には気づきを与えあう程度では同じ考えを共有することは出来ないんですね。
 
お姉さんが上司に「なんで?」と思うのと同じくらい強く、上司もお姉さんに「なんで?」と思っていると思うよと言うんです。
 
そして、気づきを与え合うことは出来るけれど、それを越えてお互いに相手を自分の思うように変えさせるだけの力を人は持っていないよ。だから、気づきを与え合って、それで合意できる距離にいる人たちが協力し合って進むのは建設的だけれど、それが出来ない人々が強引に相手を変えようと思い合ってストレスを膨らませあっていくというのは、つまらない事じゃ無いかなぁって言うんですね。
 
お姉さんは、私と気づきを与え合える距離にいますから、私はお姉さんにはそういう考えを伝えるんですね。従って、早くても遅くても、キチンと方向性を持って実践を通して理解していってくれるんですね。
 
だけど「良いとか悪いとかではなく」、単純に思考的過程に距離のある異なる選択をしている人たちとは、一応の気づきを与え合ってもあまり意味は無いんですね。それを「なんで!」と思って強引に越権行為で相手を変えようとすると、大きな摩擦が生じてストレスがお互いに生み出されるんですね。
 
それではどうしたら良いか?
 
組織的に上の立場の人がちが、自分とかなり距離のある思考的過程と選択を持っている場合には、それはそれとして当たり障り無くやらせておいて、自分は自分で距離の近い人たちとの協力体制を大切に育てながら進んでいくしかないと思うんですね。
 
枠の中で気長にいくのであれば。(笑)
 
でも、そろそろそれにも飽きてきたなと思ったり、限界を感じたりすれば、枠の外に飛び出して自分で場所を創り出していけばいいんですね。
 
私はこれまで自分の考えと異なる事には、あまり関知せず、自分の勉強したいことをひたすら勉強してきたんですね。そういう意味では、とても恵まれた職場であったわけです。
 
しかし、年齢的に周囲への影響も与えやすくなってきて、自分で色々とやってきたいなぁと思い始めると、あまりにも恵みの無い職場なんですね。出来るか出来ないかはわかりませんが、あまりにも効率が悪すぎることだけは確かです。
 
と言うわけで、職場を辞めて自分で好き勝手にやろうかなぁと思い始めている今日この頃。最低限の生活費だけ確実にキープして、あとは自分の思うままにやりたいことをやって程よく上乗せしていければ「オモシロイだろうなぁ」って、ちょっと真剣に考え始めています。(笑)
 
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