「ブログ記事」について思うこと
時々、ブログに書く内容について、ピタリと思いつかなくなるときがあります。
また、書いていてこういう内容は受けないだろうなぁと思いながらも、あえて書くこともあります。
基本的にスピリチュアル的な話しや、そういう方面からのアセンションの捉え方などについては比較的好まれる傾向にあり、個人的なエネルギー感覚の変化については、あまり好まれないんじゃないかと感じています。
なぜって?私が人の記事を読むときにそうだからです。(笑)
スピリチュアル的な記事というのは基本的に読んでいて気持ちがいいですから。そして、個人的な感覚の話しは、「大げさに捉えすぎではないか?」などと、どうしても思えてしまうんですね。
その人の性格などをよく知っていて、信頼できると思えれば素直に信じられるでしょうが、そこまでシッカリと人の記事を読み続けたことがありませんから。
だから、私のブログについても、全体的にはそんな感じで捉えられている可能性は高いし、そうでない可能性もあり、結局はそれは読んでくれる人のそれぞれ個人的なことだと思うんですね。
ただ自分で書くことに対して時々思うのは、スピリチュアル的なものは書きたくなるから書くけれど、別にこのブログでなくてもそうした良質な話しは本でも何でもたくさん溢れているよなって思っています。
だけど、普通のおじさんのエネルギー感覚的な変化って言うのは、なかなか少ないと思うんですよね。スピリチュアル的な話しと違って、受けも悪いし(笑)。頭がおかしいと思われるのが、「普通」の反応ですから。
だからこそ、少しずつでも足跡を残していった方がいいんじゃないかなぁって思うんですね。
実際に、私自身が今一番知りたいのは、エネルギー感覚の変化についてなんですね。全ての基本はスピリチュアル的な部分にあるとは思いますが、それだけが全てだとも思っていません。
しかし、本などに出てくるエネルギー的な話しは、修行僧が体験するような決まり一辺倒の型にはまった難しい話しで、私が感じているものとはかなりイメージが違うんですね。
ただ、エネルギー的な感覚の本はあまり真剣には探してこなかったので、それも1つの理由である可能性はありますが。
本に書いてあることをそのように感じろと言われればその様にも感じられるでしょうが、実際にはそんなに型にはまった形式張ったものではなくて、もっと自由に色々な可能性を「感覚遊び」出来るんですね。「感覚遊び」を専門書的に言えば、「修行・訓練・トレーニング」等と言うようになるのでしょうが。
ただ、感覚的なものなのでその捉え方についてはかなり個人的な差があるでしょうし、それを言葉で表現するにあたってもやはりかなりの個人差が出てくると思うのです。
だから、そうした体験を読むと、自分の感覚的にはあまりシックリと来ない感じがするのが一般的なんですね。
だから一部のそうした変化を伝えてくれるチャネリング情報などは、とても抽象的に伝えてくるんですね。そうすると、そうしたものを感じている誰もが自分にあった形で解釈し道しるべとすることが出来るからです。
しかし、今はまだ感じていない人が読めば、「なんじゃそりゃ?」という話しで、ややもすると偽情報の方へと引き寄せられて行ってしまう事もあるのではないかと思います。
偽情報はスピリチュアル的な要素を折り込みながらも、3次元的な「依存・恐怖」等が折り込まれており、表現も抽象的な表現に終始せず「いつ・誰が・どのように」等とても3次元的で解りやすいです。
結局それを見分けるのは、基本に戻ってスピリチュアル的な部分になるわけで、やはりスピリチュアル的な知識というのはとても大切なんですね。