アセンションの時代

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カオスであって カオスでない

今からの流れというのは、基本的に「カオス(混沌)」がキーワードになると思います。
 
ただ、やはりそれも捉え方次第であって、3次元的な視点からは「カオスである」と思うのですが、より高次元からの視点では「カオスではない」のだと思います。
 
私たち人類は、本当はとても集合的な存在なのだと思います。
 
身体に例えれば、各個人はそれぞれに手や足、目や耳として、個人的な個性を持っていると同時に全体で1つの身体という集合体を形成しています。
 
しかし、私たちは手や足という身体の一部でありながら、それを認めずそれぞれのパーツとして切り離された独立的な存在だと思いこんでいます。
 
手は、私は手であると認識しながら、身体の一部としての集合的な存在であることは認めようとしません。
 
身体の一部としての手であることを「受け入れ」、その身体として求められてくるその役割に自分を「委ねよう」としないんですね。
 
集合体としての身体が、何かを必要として掴もうとしても、手が「俺にそんな物を掴ませる気か。そんなものは足でも口でも、掴みたい奴が掴めばよい。」といった感じですね。
 
そして、ここでいう身体とは、高次元までも含めた広い意味での身体です。
 
つまり、身体的な役割もあれば、現象を引き寄せてくるエネルギー的な役割の部分(高次元)もあるということです。それまでをも考慮した上での役割分担です。
 
クラゲを見ていると、不思議に感じることがよくあったんですね。
 
フワフワと自分で泳いでいながらも、その方向とはあまり関係なく流れに流されているんですね。
 
しかし、クラゲは知っているのかも知れませんね。自分が海の一部であり、すでにいるべき場所にいるのだと言うことを。
 
今から訪れるカオスは、3次元に閉じこもった視点からは紛れもない混沌でありますが、視点を高く移した所からはそうは見えないのでしょう。
 
手がこれまでは「俺は独立した手という存在だ!」と3次元的な視点から言い張ってきたものを、実は多次元的身体のなかの一部だったのであり、切り離れた別の存在だと思っていた頭や足、さらには魂などとも繋がった、集合的な存在だったのだと気付くための「揺さぶり」なんだと思います。
 
より深いところから完全に気付けば、その揺さぶりは治まりますし、気付かなければいつまでも続くのだと思います。
 
異常気象・金融経済の混乱・あるいは個人的な出来事においてまで、今から訪れるのは「成長へのサポート」としてのカオスだという事を知っておくのは大切なことかも知れませんね。
 
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