「頑張る人」ほど苦労する
最初にハッキリとさせておきたいのですが、これは決して頑張っている人を悪くあるいは低く言おうとしているのではありません。「頑張る=美徳」であることが当たり前とされている、3次元的な常識に対して、多次元的な視点から「本当にそうなの?」という問いかけをしてみたいのです。
それは、くるくるとまわる輪の中を走り続けるハツカネズミ(私たち)が、その輪の回転軸を崩し空回りから解放されようとする試みだと思います。
基本的に「頑張る」ということには、「未来への憧れ」と「現在への否定」があると思います。
3次元の世界では、変化を捉える概念として「時間」という発想をつくりだし、目の前にぶら下げられたニンジンのような位置づけで未来というものをとらえる習慣があります。
しかし、そのニンジンと同様に、未来を掴むことは決して出来ないのです。
未だかつて未来を生きた人が存在しますか?そんな人は存在しないのです。仮にタイムマシンで未来に行ったとしても、その人にはその未来と思っていたものが「今」となり、今と思っていたものが過去となるのです。
「いま・ここ」と自己の「存在」とは、切っても切り離すことが出来ないと言うことです。
ところが今日の主題である「頑張る」というものは、「いま・ここ」を不完全、あるいは否定することなのです。つまりそれは、自己の存在に対して否定的であるという事なのです。
頑張れば頑張るほどに、その自己否定は強まります。
しかし、頑張ったから成功したのだと思うのが一般的な考え方です。
しかしそうでしょうか?そもそも成功とは何なのでしょうか?
がんばり続けて金メダルを手にして、その後に目標を失って人生を転げ落ちていく。珍しい話しではないと思います。それが金メダルでなくても、大リーグであっても、事業家であっても同じです。
一見して成功者とされる人々のその後というのは、以外と悲惨に見える人生であることは珍しくありません。
一方では、一見すると敗者と評されるような人でも、その後にマスコミに照らし出されないところで充実した人生を送っているということもまた珍しくはありません。
ポイントは何なんでしょうか?
それは「自分を受け入れること」が出来たかどうかの違いだと思うのです。
全ての存在は、その多次元的な視点において完璧な存在なのです。
問題は「それを受け入れられるかどうか」なのだと思います。どれだけ頑張ったところで自分を受け入れられたかという問題なのです。
成功者と世間に評されても、自分を受け入れられなければ結局は不完全な自分を続けていくしかないのです。敗者と評されても、そこで学んだ経験から世界(自分)の素晴らしさを学び受け入れれば、素晴らしい存在として生きられるのです。
言ってしまえば、はじめから努力などしなくても、私たちは完璧な存在でありそうあれるのですが、これまでの地球次元の特徴として、そんなにも単純なことがあまりにも難しかったということなのです。
「頑張る」についてよく考えてみて下さい。
それは「いま・ここ」を否定することであり、「自己存在」を否定することなのです。なぜなら、自己とは「いま・ここ」にしか存在することは出来ないのだから。
「未来」という幻想を美化して、「いま・ここ」という現実を否定する。
そこにあるのは空回りするジレンマ的な毎日だけではないでしょうか。
頑張る必要はないのです。
必要なのは、「いま・ここ」に与えられている完璧なる学び場を、自己表現と探究の場として存分に受け入れて楽しむことです。
(こんなことは書き足すまでもない話ですが、頑張る必要がないとは、「だらけていればよい」という意味ではありません。本当に書き足すまでもない話ですが。(笑))