アセンションの時代

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「真実」と「幻想」

スピリチュアルなメッセージを読んでいると、よく「幻想」という言葉が出てきます。私達は幻想の中に入り込んでおり、様々な幻想に苦しめられているというか、様々な幻想を生み出して自分から苦しんでいるというのです。
 
では、いったい何が「真実」で何が「幻想」なのでしょうか?
 
基本的に「自分が感じているものは真実」だと思うのです。そして、「自分の解釈による状況」は幻想なのではないでしょうか?特にこれまでの3次元世界では。
 
つまり、自分が「嫌だなぁと感じる」その感じは真実であり、自分が「周りから阻害されている」という状況解釈は幻想だと思うのです。
 
私達は唯一の愛というエネルギー世界に存在していながら、その愛ゆえに幻想を生み出すことを許可され、分離に基づく様々な幻想によって学びを促進しているのです。
 
存在するものはただ愛であり、そうでないものは幻想なんだと思います。しかし、そうした幻想を利用して生み出される私達が「感じるもの」は、「真実」なのだと思います。
 
私は確かに存在しており、その私という存在が経験から感じたものは確かに「真実」なのです。
 
しかし、その真実を生み出す状況は「幻想」なのかも知れません。「あの人はこう思っているだろう。」というのは幻想だと思います。それは、自分の経験ではないからです。
 
テレビを見ていると、テレビの中に出てくる人たちが、美味しそうなご馳走を食べたり、綺麗な大自然の中を散策したりしています。それを見ていると、自分も同じような共感に浸ることが出来ますが、それは幻想であり真実ではありません。
 
自分の経験ではないからです。自分の経験は、「テレビの前に座って画面を眺めている」という真実です。
 
私達の存在している目的のひとつに、「経験」という体験を重ねることがあるのだと思います。
 
しかし、大きな経験であればあるほど、そこにはリスクが付きまとってくるのです。リスクは多くの場合、今の経験ではなく想像に基づく幻想です。
 
自分で経験しようという真実の体験が、幻想によりストップされるのです。そして、その幻想のリスクを回避するために、私達は体験という真実を回避して体験の代りとなる幻想で安上がりにすませようとします。
 
世界の秘境へ行くというスリルの冒険をするのではなく、テレビでそのような番組を見ることによって、行った様な幻想を味わいそれでよしとするのです。
 
こういった行動は、思いのほか多いのかも知れません。
 
「それは良くない!」と思ったとします。しかし、自分の口からそれを言うという経験を回避して、他の人が言ったことにうなずく事で自分も言ったかのような幻想に浸るとか。あるいは、後で相手がいなくなってからみんなでそれを言い合って、相手と議論したかのような幻想に浸るとか。
 
しかし、真実とは「自分の経験から感じたもの」だと思うのです。
 
ところがそれには、ネガティブな発想が生み出す幻想としてのリスクがあるように感じられるんですね。だから、私達は「自分で経験する」ことを回避して、「経験したかのような幻想」に逃げ込みそれで満足したかのような幻想を生み出します。
 
アセンションというのは、幻想の先にはないんですね。自分で経験し感じ取った、真実の先にのみアセンションはあるのです。
 
どんなにたくさんの本を読んでも、色々な知識を蓄えても、それを実践により経験していかなければアセンションには繋がっていかないんですね。アセンションという幻想で、アセンションするかのように感じたいという人は、そういう幻想を経験するだけなんですね。
 
難しく考える必要も、ハードルを高くしてプレッシャーに考える必要もないと思うんですね。
 
ただ、本当にアセンションを信じているのなら、どんなに小さなことからでも「調和」を実践していかなければならないんですね。
 
調和に関する記事を何十冊も読んだところで、それだけではあまり意味は無いんです。どんなに小さなことでも、その調和を「実践」したときにはじめて自分の波動は少しずつあがっていくんですね。
 
アセンションをするためには、私達のとても得意としている幻想(バーチャル)から抜け出し、自分の経験から感じ取るという「真実」の歩みを進めなければならないように思います。
 
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