「出来ること」と「出来ないこと」
家庭内でまたと言うか、相変わらずゴタゴタがあるのですが、それによって今の自分と過去の自分を見ることが出来ています。
過去の自分の役を私の母親がやって見せてくれていて、今の自分は言い方が悪いですが「なぜ、そんな無意味なストレスを自分から創り出すんだ?」と母親(過去の自分)に諭しています。
自分の魂の進化を、妻→長女→長男の順でそれぞれにハードルをぶつけてきてくれたのだと言うことが良く理解できています。
今は仕上げの段階として長男がハードルになってくれているのですが、その一方で、母親が進化する前の自分を映し出してくれています。母親には申し訳ないとも思いますが、自分がこれまでに得たものを母親にリターンすることで母親の魂の進化の材料になるのだと思っています。
現在、長男がなかなか不安定な状態で長男自身を含めたみんなが困っているのですが、私や周囲がどんなに心配したところで、長男の人生は長男の問題であり、私たちが変わりにとりかわってあげられるものではないんですね。
長男の人生においては私たちはあくまでもサポーターであり、主役は長男自身なのです。私たちはそれぞれ自分の人生を尊重した上で、長男のためにも動くのですが、サポーター以上の役割をになっているのは長男自身でしかないのです。
彼がその気にならなければ、サポーターの努力など何の意味もないのです。もちろん、その気にさせるためのサポーターの努力もあるのですが、それが実るも実らないも長男しだいな訳です。
しかし、過去の私、現在の私の母は、その立場と役割を乗り越えて、自分が長男を何とかでき、何とかしなければならないと思いこんでいたのです。
こういっては何ですが、それは人の人生を自分がコントロールできるという「うぬぼれ」であり、長男の人生に対する「越権行為」以外の何ものでもないんですね。
それは、長男を見捨てるとかというものではなくて、それぞれの立場をわきまえなければならないという事です。私は私の人生をコントロールする必要がありますが、長男の人生をコントロールするのは周囲の大人ではなく長男自身だと言うことを理解する必要があるのです。
その上で、私たち周囲の大人は長男のサポーターとして最善を尽くす義務があるのです。
その役割分担を越権して、子供の人生を乗っ取りコントロールしようとしたときに、私たち周囲の大人達は強烈な不安にさいなまれます。思うように動かない子供を前にして。
だけど、そんなことには意味はないし、意味が無いどころか逆に自分を戒め子供の権利を蔑ろにする事にしかならないんですね。
ただ、こうして文字面だけを読むと、そんなことでは子供が可哀想だと思う人もいるかも知れません。しかし、あくまでも子供のサポーターとして、時間がかかっても子供の本質的な気力を導いてあげることが大切であり、それを無視して強引に大人達の思うように子供をコントロールすることが子供のためであるとは思わないんですね。
第一にそれは無理なことであり、無理でないのならさらに相当な負担が子供にかかっているのだと思います。
子育ては温室の中で1人で育てられるものではなく、様々な大人や環境の中で育てていかなければなりません。そこには、ポジティブな人々もいればネガティブな人々もおり、それをいちいち人のせいにしていたのではきりがありません。
こう言っては酷に聞こえるかも知れませんが、その環境は子供自身の人生の一部なんですね。子供がそれを受け入れて成長の糧としていくしかないのです。
親としてはもちろん、「サポーターとして」全力を尽くしきる義務がありますが、結局は子供の人生を何とか出来るのは子供以外にはありえないんですね。それを間違って、自分が子供の人生を何とかしよう(あるいは何とか出来る)と誤解して親たちは悩むのです。
しかし、そんな悩みにポジティブな意味は何もないのです。
子供の人生を何とかしなければならないと悩み続けた結果、子供の人生を何とか出来るのは子供自身以外には何もなく、私たちに出来る役割やあくまでも最高の「サポーター」なのだと感じる今日この頃です。