アセンションの時代

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「頑張る」に潜むネガティブ

「頑張る」という意識は、不信に基づいているのかも知れません。
 
このブログのテーマの1つでもあるのですが、「パラダイムシフト」というのは、これまでの常識が覆るところにその難しさがあります。
 
なぜなら、常識が覆るというのは、その事だけが覆るのではなく、それに基づく世界観そのものがセットで覆る事であるからです。
 
これまでの私たちの世界観において、「頑張る」というのは一般的に美徳とされてきました。
 
しかし最近、私はこの頑張るという意識に対して、抵抗を感じるようになって来ました。
 
「頑張る」というのは、分離に基づく生存意識が根底にあるという、存在ということに対する不自然さを感じるようになってきたのです。
 
つまり、頑張るという意識の前提には、自分は不完全であるという意識があり、また、世界は不十分であり自分は充分な環境下に無いという前提があります。だからこそ、「頑張る」必要があり頑張るのです。
 
しかし、実際の真理はそうではありません。
 
私たちには充分な能力があり、環境があります。私たちは、その能力と環境をただ伸び伸びと興味の向くままに楽しめばよいのです。
 
サラリーマンを止めてこれで半年になりますが、ようやくそういう感覚が出てくるようになりました。当初は、古いパラダイムに囚われ、内面的な葛藤が想像以上に沸きあがってきました。
 
それこそ、スピリチュアルなメッセージを繰り返し頭に叩き込み、何とか内面の状態を安定させようとそれこそ必死に「頑張って」きました。
 
そして、最近になってようやく状態がその根本から安定する兆しが見え始めてきました。
 
ここで大切なのは、仕事や収入などという外面的な要因は、この半年でそれ程変化していないということです。それでも、私の精神的な状態は安定し始め、かなりいい感じに立ち上がり始めそうな手ごたえを感じています。
 
おかれた環境の何が変わったわけでもなく、ただ私の内面が、宇宙の真理を受け入れはじめたというだけのことなのです。
 
つまり、自分には能力がある。環境も整っている。頑張る必要など無い。ただ、受け入れてやりがいに従い生きていけば、それでよいという状態になれてきたのです。
 
これは、自分に対するうぬぼれという問題ではなく、存在する全ては例外なくそうであるのだとわかってきたのです。誰もが必要な全てのものを既に持っており、あとはそれに気付き認めることが出来るかどうかの問題につきるのです。
 
私はそれを知っていましたが、深いところでそれを受け入れてはいませんでした。だから、「頑張る」必要があったのです。
 
しかし、今ではその頑張るという事に不自然さを感じるようになってきました。やりたい事をやるのに「頑張る」っていうのはどうも違うんですね。そういう時には、「楽しむ」とか「やりがいを感じる」という状態になり、「頑張る」という行為がいかにネガティブな要素を含んでいるかということが強く感じられるんですね。
 
そして、「頑張る」時には必ず「マインド」が自分を引っ張っているのです。しかし、「やりがい」に従う時には、「ハート」が自分を導いているのです。
 
つまり、頭で考えて計画的に事を進めているのではなくて、ハートで感じて感覚的に流れに乗っていくのです。
 
これらの全てを私は以前から知っていました。しかし、知識として知るに留まり、実際に自分がその状態になることが出来ていなかったのです。
 
「知識」を得る事と、実際にそう「なる」こととの違いが、いかに大きな違いであるかということを少しずつ感じられてきている気がします。
 
そのせいなのかどうなのか、最近、知識欲が無くなってしまい、読書などの楽しみが消えてしまいました。知る事への興味が無くなってしまったのです。たまたま、一時的な波の中でのことなのか、それとも何らかの変化によってそう変わってしまったのかはもう少し様子を見て見たいところですが。
 
そして、代りに興味の中心に座ったのが、「感じる事」なんですね。エネルギー感覚をはじめとして、風や日差しや音や光や気持ちなど、自分が感じるその感覚にとても興味が沸いてきてそれらに浸るのです。
 
マインドからハートへと主権が移行してきている事の、1つの現われなのかなとも思ったりしています。
 
退職してから、職場という社会との最大のつながりを失ったという事も出来るわけですが、そのわりには社会とに関係が途切れる事も無く、色々な人が声をかけてくれたり、思わぬところから声がかかったりすることがあります。
 
信じて期待していないから良いような気がします。期待するというのは、信じていない証拠なんですね。信じているのであれば、そうなるのだから、期待する必要などないのです。
 
そして、信じたとおりに出来事が寄ってくるから、「ほら」と思って次もまた信じて、不安を感じる必要がないんですね。
 
しかし、なかなかそれが待てないんですよね。待てずに不安に飲み込まれて、「ほら」まで辿り付けないんですね。結局はそれは、信じていないということなんです。
 
ただ、私の場合は偉そうな事を言っても、何となく感じ始めたという所で、この先も本物かどうか継続的に自分を観察していく必要はありますが。来年が終わる頃には、またどんな自分に代わっているのか楽しみです。
 
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