アセンションの時代

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「依存」からの自立

色々とテーマをいただいて、のんびりと書いていこうと思っていたのですが、書くことがあると何か手が空くたびに書きたくなってしまいます。(笑)
 
そういう訳で、今日は3本目の記事になるのですが、海馬さんのくれたテーマについて書いて見たいと思います。
 
個別のブログや第三者への批評にならないようにしようと思いますので、そのブログについては軽く目を通す程度でしか見ていませんが、いただいたコメントの趣旨から書かせてもらおうと思います。
 
スピリチュアルに対する否定的な見解をどう思うかという事で書かせてもらいます。
 
まず、なぜスピリチュアルに関わらない方が良いかという理由についてですが、「依存」があげられています。私もこの「依存」については問題ありだと思っています。
 
ブログの方を軽く目を通させていただいた範囲内では、この方も「依存心の強い人はスピリチュアルには関わらない方が良い」という趣旨で書かれているようで、スピリチュアル自体を全面否定しているわけではなさそうですね。
 
旧来のスピリチュアルというと、バーンと大きく宗教という分野が存在していた訳ですが、この組織的な宗教団体の根幹を成しているのが「依存」なんですね。
 
信者は、神様あるいは神様の遣いであるとされる階級の高いものに「救ってもらう」ためにお布施もシッカリと納めて言う事にもキチンと従うという発想です。
 
自らの内にある神聖を目覚めさせて、そうした内面からの高い導きにより自らの目覚めによってあるべき自分になっていくというのは、旧来の宗教では主流ではなかったのだと思います。
 
旧来の宗教と、新しいスピリチュアルには、そうした決定的な違いがある訳です。
 
精神性を求める人たちの受け皿はそのように飛躍的な進化を遂げ始めているのですが、そこへひかれてくる人たちのある程度の人たちは、まだ「自分の外に存在する力・エネルギー・教えによって救われたい」という姿勢でスピリチュアルへ向かっているように感じます。
 
結局、2つ前のR子さんのくれたテーマへの記事で書いたように、「自分で考え・感じる」ことが大切なんですね。それが出来ていないという意味において、そんなことならスピリチュアルにははじめから関わらない方が良いという考えなのではないかと思います。
 
ただ、そうした依存心の強い人というのは、AでなければB、BでなければCというように、結局は何らかに依存する事を求めていってしまうものだと思います。
 
だから、たまたまAとして矛先の向かったスピリチュアルを否定した所で、それがダメなら次の依存先を求めるだけですから、スピリチュアルへの関わりを否定する事で解決しようとするのは、本末転倒的な要素があるかもしれませんね。
 
人間というのはロボットではありませんから、そういう意味でスピリチュアル的でない人というのは存在しないんですね。そのスピリチュアル性を高めようというのは、とても大切な私たちの存在目的だとも言えます。
 
つまり、スピリチュアルに関わると、依存によって身を滅ぼすというのは、「依存」にこそ問題があるのであって、それをスピリチュアルに問題転換するのは誤った捉え方だと思います。
 
多分、ご指摘のブログを書かれている方も、そうした趣旨で書かれているものが、言葉で伝える事の難しさにちょっと絡まった所があるのかも知れませんね。
 
本質的にはスピリチュアルそのものを否定するという事は、人間よりロボットになれというようなものですから、そのスピリチュアル性を高めようとする姿勢が否定されるような事は無いと思います。そのスピリチュアルのありかたについての議論はあるでしょうが。
 
今回いただいたコメントについて、私の考えをまとめると、「依存」に問題がある所を「スピリチュアル」の問題にすりかえられてしまっていると感じました。依存せずにどうすれば良いかというのは、2つ前の記事で書いたとおり「自分で考え感じる」ことだと思います。
 
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