アセンションの時代

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脳の中心で見る

私たちが持つ「視覚」能力は、主に2種類あることはご存知の事でしょう。
 
1つは、日常的な世界を見る「目」による視覚能力です。
 
そして、もう1つは夢という、物理世界とは異なる周波数帯の世界を見る視覚能力で、これは目による視覚能力ではないのだと思います。
 
そもそも、目で見る視覚能力と言うのも、その仕組みがキチンと解っている訳ではないようで、それは目と言う単独器官によるものでもなく、脳の松果体が大きく関わっているのではないかと考える説もあるようです。
 
それが、いわゆる「第三の目」や特定の「チャクラ」等と言う言葉で現されたりもしています。
 
この2つの視覚能力には、似た点と異なる点がそれぞれにあると思うのですが、私が思うには、見る場所と言うかイメージする場所と言うか、捉えてイメージしている所が違うように思います。
 
うまく言えていないと思うのですが、要は目で見るというのは、「前方」を捉えて脳内に眼前のイメージを映し出し映像化していると思うのです。
 
しかし、夢などを見る視覚能力においては、眼前と言う前提が崩壊します。何といっても目は瞑っているのですから。
 
従って、眼前ではなく異なる周波数帯に映るものを、脳内(?)に映し出しているのです。
 
つまり、この2つの能力は、眼前のものを映し出しているか、物理世界と異なる周波数帯の世界を映し出しているかにおいて、ハッキリと異なるのです。
 
ただ、眼前に広がる世界も、結局私たちが認識しているものは、目の前にあるというよりも私たちの脳内に映し出された1つのイメージ世界な訳です。
 
それは人間の視覚能力が捉えた世界であって、全てを映し出した真理の世界とは違うんですね。人間の視覚能力で捉えられないものは多く、もっと言ってしまえば、目の前の真理の殆どは人間の目では捉えられていないのです。
 
さて、そうした私たちの2つの視覚能力は、実は目の前にあるというよりは、脳内にあるイメージという事が出来るのかも知れません。
 
人間は、とても強い割合で「視覚」能力に依存しており、「前」を捉える意識が強く働いています。
 
しかし、自らのエネルギー世界を感じとる時に、無意識に働く「前」を捉える意識がいかに偏ったものであるかと言う事を強く感じるのです。
 
つまり、私たちは自分を起点として、その前方に意識的な世界を捉えてきたのです。しかし、エネルギー感覚においては、「意識」の立つ位置はエネルギー世界の中心になるんですね。
 
前に感じるのと同じだけ後ろに感じ、上に感じるのと同じだけ下にも感じるのです。
 
私が目を瞑った状態で、時々物が見える事があるというのは、目で見る視覚能力ではなく夢を捉える視覚能力に近いものだと思うのです。
 
そして、それは前方を捉えるのではなく、中心の深いところ(異なる周波数)を捉える感覚ではないかと思うのです。微かに見え始めた時に、そこに集中するとよりハッキリと見えてくるのですが、はじめの微かに見え始めるまでの集中の仕方が、どうしても見るという意識とイコールで前方に向いてしまいがちなんですね。すると、見えないんです。
 
エネルギー感覚を高めると、時々、自分の周囲に微かに霞が湧き上がってくるのが見えるのですが、それも見ようとして視線を向けると消えてしまうんですね。焦点を合わさずに視点の周囲に沸き立つのを感じ見ることしか出来ないのです。
 
これももしかしたら同じ理由なのかも知れません。ちょっと解りにくいですが。
 
そうした脳内のイメージとして見る時には、点として見るより面として見た方が見えやすいような事は少し感じています。
 
点として見ようとすると、そこに距離感・奥行きが生まれて、脳の中心で見るのではなく前方を見るという感覚になってしまうからです。
 
ただ、実際には夢を除けば、まだ目を瞑って見る事が出来るというほど頻繁に見れるわけでもなく、模索中という所ですが。
 
ただ、少し気付き始めたのは、この世界には前を捉えるという1つの基準があるように、私たちが今入り始めた世界には、中心から捉えるという1つの基準があるような気がしています。それは、エネルギー感覚においても、そうした世界を見るという感覚においても共通する事です。
 
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