「なろうとする」と「なる」の違い
瞑想についてここ数日、これまでとはかなり違う感覚が出てきています。
まず最初に書いておくと、私の言う瞑想は、胡坐をかいて座り目を瞑って無の状態を目指すというものだけを言うのではなく、散歩などで自然浴をしている時や、横になって寝転んでいる時、あるいは椅子に座っている時などに、五感とは異なる感覚あるいは五感であってもそれをエネルギー的により繊細に感じている状態の事を言います。
私は、瞑想によって「無」になろうとしているわけではないのですが、それについてこんな言葉があります。
「無になろうとしている間は、無になることは出来ません。ただ、無であれば、無になれるのです。」
これは宇宙の法則であり、なりたいものになるための秘訣なんですね。
まったく同じ話なのですが、少し設定を変えたところでこんな話もあります。
「神社等に行って願い事をしてはいけない。願い事をするとは、願いのかなっていない状態を宣言する事になり、宇宙はその状態をより強く現象化してくることになってしまいます。しかし、願うのではなく感謝をすれば、それは満たされた状態を宣言する事になり、宇宙はその状態をより強く現象化してくれることでしょう。」
これがこの世界の仕組みなんですね。
これを理解し意識することはさほど難しい事ではありません。しかし面白いもので、その時点で既に落とし穴にはまっているんですね。理解し意識してそうあろうとしているのです。
そうあろうとする限り、この宇宙では今はそうあれていない自分がより一層現実化されてしまうのです。
「そうあろう」としてはいけないんですね。ただ、「そうあれば」良いのです。
これについて、私は瞑想をしている時に、そうした落とし穴にはまり続けていた事にここ数日で気付き始めたのです。
私は思考することなく感覚に意識を集中しようと「していました」。そうあるのではなく、そうあろうとしていたのです。
つまり、私はそうなれていない状態を現実化し続けていたのです。
感覚を意識しよう感覚に集中しようという思考の手のひらの上で、感覚になりきろうとしていたのです。
しかし、そう思い感覚に集中すればするほど、それは思考の手のひらの上に自ら乗っているのだという感覚が出てきて違和感を感じ始めていたのです。
そこで、感覚に意識を集中しようと言う思いを消し去り、ただ自分が感覚と一体になることを実践して見たのです。
すると、これまでとはかなり異なる感覚を感じ始めることになりました。エネルギー感覚に「集中する」感覚ではなく、エネルギー感覚「そのものになる」という感覚です。
ただ、それは凄い、行け行けどんどんかと言うと、それがそうでもないんですね。何というか、地に足の着いていない状態になってしまうのです。
まあ、気が向いた時に少しずつそうした意識をもっていけば・・・、ああ、違った。ただ、そうあれば、自分の感覚として安定していくんじゃないかなと思っています。
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