アセンションの時代

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「言霊」・経験を生み出す力

私たちは、目に見えるものに極端に比重を置いて生きて来ました。

例えば、「愛」だけでは満足できず、それをプレゼント等の「物」へ変換して現される事を望み、知識だけでは満足できず、それを「点数」という数字に置き換えて満足を求めました。

そうした私たちの感覚の中で、とても軽視されてきたものの1つとして、「言葉」というものがあります。

言葉はそれ自体は目に見えるものではなく、基本的に誰でもが日常的に口から発している音です。

私たちの人生と言うのは、経験の上に成り立っているのであり、物の上に成り立っている訳ではありません。

私たちが人生を終える時に、肉体はそのまま何も変わらずに残っていながら、その肉体をまとった経験の終了により、この次元での人生の幕はおろされるのです。

しかし、私たちはあくまでも物(物質)を重視し、言葉や愛という形の無いものも、物に置き換えて表現される事を望んで来ました。

しかし、物はあくまでも物であり、それ自体が愛を持っているわけではなく、たまたま愛によってそれが運ばれてきたというに過ぎません。

世界と言うのは、愛と闇のバランスによって様々に表現され、私たちはそれを経験しています。

その比重をいかに愛へと傾けるかが、この世界での経験を充実させたものへと変えていく秘訣なのです。

こうした時に、物質と言うのは、基本的に直接的な力を持っていません。物質はそれだけでは単なる物質であり、愛や闇とはあまり関係がないのです。

ただ、これまでの次元世界に適応して生き残っていくためには必要不可欠なものでもありました。

つまり、物質とは3次元世界での生存に不可欠なものであり、そこでの生存を安定させる事が出来ますが、そこでの経験を愛へと向かわせ充実したものへと向かわせるにあたっては、単なる道具であり使い方しだいなのです。

あればそれで良しというものではないのです。しかし、私たちは物質を重視するあまり、あればそれで良しと満足してきてしまったのです。

そうした物質と言うものの特質に対して、言葉というものは、直接的に愛や闇を伝播させることが出来ます。そして、これまでの次元世界では、愛や闇をもコントロールすることまでも出来てしまったのです。

そうやって考えると、いかに言葉が大切かという事がわかるのですが、私たちは簡単に言葉を汚してしまいます。つまり、自らの経験の中に闇の種をあまりにも気楽に撒き散らしているのです。

例えば「バカ」という言葉は、誰でもが簡単に口に出すことが出来ます。そこには物を得るための苦労のようなものは必要ありません。人は、簡単に出来、手に入ってしまうものにはあまり関心を持たない傾向があるようですね。

しかし、簡単に発した「バ」「カ」という2つの音は、空気の振動となりその波動を相手の耳の鼓膜を通して、相手自身の波動の中へと直接的に投げ込まれる事になります。そして、その2つの音の組み合わせが、相手の波動の中に深い波動を生み出し経験として記憶されます。

そして、その記憶は同時に自分の記憶となり残っていくのですね。

私たちはとても気楽にそうして闇の種を蒔いてしまうのです。

もちろん、それは音だけの問題ではなく、表情やニュアンスを含めて、場合によっては冗談や親しみとしての表現の場合もあり、必ずしも音だけを絶対視して神経質になる必要はないのですが、その音に本当に「気(感情)」を乗せたときには、その言の波はとても強力な力を生み出すということを理解しておく必要があります。

たった一言が、積み上げてきた人間関係を崩壊させる事も出来るのです。それは、物では取り返す事の出来ないものなのです。

今の例では、言葉の悪い使い方による例をあげましたが、ではこれを逆に、良い方向に積極的に利用し、日常的に愛の種を蒔く習慣を身に着けていったとしましょう。

どうなると、思いますか?人望が集まり、好意を持って人が寄ってくることになるでしょう。

それには「お金」や「物」は必要ないんですね。

言葉の力を知り、自分の内の無条件の愛を、その力でコツコツと表現していけば、何の苦労も無く自然に集まってくるものなのです。

それが出来れば苦労しない?

その通りなんですね。

それをすれば、無駄な苦労は無くなるのです。そして、それが出来る人にとって、それは難しい事でも苦労する事でもないんですね。自分の中の無条件の愛を知り、ただそれに委ねるだけなのです。

偉そうな事を書いて自分は出来ているのかって?ハッハッハ、もちろん完全になど出来ていません。怒れれば言葉も汚れるし、人間ですからね。(笑)

この世界は、完全か不完全か、〇か×かではないんですね。少しずつ過程を経て進歩していくものなのです。そういう観点に立てば、私は少しずつは進歩してるんじゃないかなと思っています。

そして、言葉の力がわかってくるとオモシロイもので、無言の力が理解できてくるのです。無言と言うのはある意味、言葉以上の力を持つのですね。それゆえに使い方によってはやはり闇の種を蒔く事になってしまいます。

今の時代、分離を握り締めている人は、必死になって分離をアピールしてきます。人をバカにしたり、自分の考えを押し付けたり。

私はどうもそういう人の標的になりやすいようで、異常とも思えるようなアピール攻撃にあうことがしばしばありました。

以前はそうした同じ人々は、私に対しては他の人に対するよりも比較的穏やかな態度をとっていたのです。

結局、これがエネルギー流入で、3次元が主流であった世界から、3次元が消滅していく世界へと移り変わった影響だろうなぁと、心の中ではそう思いながら眺めています。

こうした人々には、穏やかに意見を言っても、火に油を注ぐ事にしかならないんですね。言い方や内容云々ではなくて、自分と違う意見を言ったという事が許せないのです。

一般的な人のように黙って下を向いていれば良いのですが、私は顔を上げてそうした人たちを眺めているためか?同意を求められる事が多いのです。声をかけられなければ、みんながつくりだした流れを眺める傍観者でいるつもりなのですが、同意を求められては、やんわりと「それはこういうところに少し問題があるかも知れませんね。」と言うしかありません。

それが許せずに覆そうと話してくるのですが、何しろ感情的な話ですから、そんな感情は相手にせずに穏やかに筋を通して説明すれば、もう相手はキレルしかないんですね。

だから、そういう人や場には近づかないのが一番なんですね。

自分の中にそういう人や場を繋いでおく事には、もうあまり意味はないんですね。そうした学びはだいたい終わったと思いますし、必要ないと思うのです。

周囲のエゴに振り回されること無く、自分の中の無条件の愛に素直に委ねていれば、それでも人は寄ってきて声をかけてくれるんですね。

しかし、その行動がエゴによっているものだと解釈されれば「あいつは我がままで自分勝手だ」という事になるのですが、そういう見方をする人は、やはり自分の中のエゴに捉われている人であり、気にかけて声をかけてくれる人たちは、無条件の愛に素直な人達が多いんですね。

だから、今ではエゴの強い人との繋がりというのは、もうあまり残っていないですね。よく、考えて見れば。

あと一人だけ強烈なエゴを抱えた人が直ぐ近くにいるのですが、私にエゴを抱えた人の状況を伝えてくれているのだろうと思って見ています。何とか良い方向へと影響できたらと思うのですが、取り付く余地も無くただ見ていることしか出来ないのが残念です。それも、完璧な霊的存在としてのお互いの選択に基づいて経験している事なのだろうと思います。

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