アセンションの時代

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「調和」・区別すれど差別せず

リクエストを頂いて、今日は「具体的な調和」について書いてみたいと思います。

確かに「調和」という言葉は抽象的な言葉であると思います。抽象的であるがゆえに幅広い事象をカバーできる本質を表しているとも言えるでしょう。

しかし、逆に言えば何となくイメージは伝わるけれど、いざ日常に取り込もうとした時には・・・、「具体的にはどうしたらよいの?」となりやすいのが抽象的な表現の欠点かも知れませんね。

まず、これもまだ抽象的ではありますが、抽象的と具体的の中間として私が思っている考え方は、「自他を区別するけど、差別しない」というものです。

私たちは二極性の観点から、区別するとそのままそこに価値を乗せて差別してしまう癖がついているように思います。あれは良い、これは悪いと。

しかし、そうした価値判断は分離に基づくものであり、自分の本当の力を外に委ねてしまうことになるのです。

本当の力は自分の内にこそあるものであるのに、それを外に現れたものに委ねて、あれは良いもので私を幸せにする。あれは悪いもので私を不幸にするというように、外に現れた物に自らへの影響力・決定権を委ねてしまうのです。

しかし、調和に基づいてそれらを眺めれば、それは「多様性・個性」であり、良い悪いというものではないのです。

私たちは多様性の世界に存在しています。特に地球と言う惑星は、宇宙でも稀な多様性を有した惑星であるのです。

つまり、世界は自分と異なる存在に溢れているという事です。

そういう状況にあって、私たちは日常の中で、自分と異なる考えや行動に対して「良くない・悪い」と価値判断を押し付けて怒るのです。表面的にまで怒るのもそうですが、表面はニコニコしながら腹の中で怒っているのも同じ事です。

違うという事は個性なんですね。

そうした事によって自分の感情が振り回されるという事は、自分と異なった表れに対して力を委ねてしまっているからなんですね。

その人はそういう個性をもった人なんだと思って眺めておけば良いのです。その手法が自分と同じなら一緒に頑張れば良いのです。方向性は同じでも辿る道が違うのなら情報交換をしながらそれぞれに進んでみるのも良いでしょう。

もし、根本的に異なるのであれば、そういう人もいるのだとただ眺めておけば良いのです。何も自分が付き合う必要はありません。

それが調和であり、自他を区別するけど差別しないという事だと思います。

人によっては、それは相手を見捨てるようで冷たい対応だと映るかも知れません。しかし、それは自分は優秀で相手が劣っているというエゴの価値判断なんですね。

私たちは、最終的には世界との統一へ向かって、それぞれに調和を学んでいるところなのです。この世界は、その道のりに対してそれぞれの方法それぞれのペースで進むという多様性に溢れており、それが素晴らしくもあると思うのです。

方法やペースが違うからと相手を批判するものではないと思うのです。相手に自分の方法とペースを押し付ける事が優しさではないんですね。それはエゴです。

ただ、支えあうという意味で、お互いに有益な情報の交換やサポートは大切だと思います。しかし、押し付けるものではありません。

実際にこれまでの3次元世界では、そんな綺麗ごとでは済まされない状況がありました。それは、世界そのものが3次元波動でその中に私たちが存在していたからです。

しかし、既に今の時点で、そうした言い訳は出来なくなっています。世界の波動は4次元以上への多次元へと移行しているからです。

後は各自自身の波動の問題なのです。

ここまでは対人関係をイメージして書きましたが、こうした関係は自然や動植物に対しても同様です。

私達日本人は、自分を犠牲にして押し殺し、周囲との調和を「偽装」する癖を持っています。これはアジア人のDNAの中に、意図的に組み込まれているものなのです。

そうした行動も、やはり「差別」から起こるものと言えます。自分を差別していると言うことです。

こうした諸々の視点から、調和を具体的に書いて見ますと、要は日常の諸々において、理想的な生活を目指しましょうというだけの事なんですよね。(笑)

例えば、自然を大切にするというのは、草を抜いては可哀想だから庭は草だらけだとか、蚊を殺しては可哀想だから我慢するというものではないんですね。草や虫などは人間とは意識状態(レベル)が違いますから、殺されたからと言って人間のようには悲しまないのです。

しかし、だからと言って除草剤や殺虫剤と言う汚染物質をばら撒いたり、執拗にそれらを駆除することは調和とは言えませんよね。

台所での洗い物をする時に使う洗剤などは、闇の勢力によるテレビCMによって完全に踊らされていると思います。

人々の頭の中には、洗剤を使わないと綺麗にならないと刷り込まれてしまっているんですね。

しかし、実際には「動物性の脂」が付いた物意外は、水で洗えば完璧に綺麗になるんですね。ご飯粒の欠片がカリカリになっていれば、水につけておいて最後に洗うようにすれば問題ないですし、フライパンの焦げ付きは使い終わってから少しの水とタワシで熱をもって洗えばたいていは綺麗になります。それでダメなら、水につけておいて食後に洗えば大丈夫です。動物性の脂は、お湯をかけてやれば綺麗にとけ落ちます。それでもダメな時は、少しだけ洗剤を使うのも手かも知れませんね。

ところが多くの人は、そういう事を知らないんですね。テレビCMによって、洗剤を使わないと綺麗にならないと刷り込まれてしまっているんです。

あと、肉食も減らしていった方が良いでしょうね。

肉が嫌いで食べられないという人は、子供の頃に肉をさばくところを目にしている人が多いです。私たちは当たり前に肉を食べていますが、それは大型の生き物たちを殺して食べているという事なのです。

大型の生き物と言うのは、昆虫や植物と違って、魂のあり方が人間に近いようです。つまり、殺される事に対して、ある程度人間に近い感情を持っているようなんですね。

そして、殺される瞬間には大量のアドレナリンが放出され、私たちはそれらを食べているのです。栄養学的には色々に言われますが、そうしたアドレナリン等についてや、肉を分解するのに必要とされる内臓におけるエネルギーとそこから吸収されるエネルギーなどを考えると、人間の身体には肉はあまり良くないようです。

ただ、私たちはそれを食する文化の中で育ってきていますので、それを手放すにおいても、各自のペースは尊重されて良いと思いますが。私も量はかなり少ないですが肉もマグロなども食べますし。

ジャンクフードではなく、自然の野菜・穀物・果物などを美味しく頂くというのも調和だと思いますし、自然の中を散策してゆったりとした時間を過ごすのも調和だと思います。

調和とはあらゆる全てのことに対して持てる自他の関係であり、具体的に上げていったらキリもなく指し当たって頭に浮かんだのはこんな所です。

そのような事が調和の一例であると思いますが、それが出来ていない人を見つけて「ダメ・悪」と価値判断を振りかざすのは調和ではないと思います。

その様な人には、機会を見てこうした情報を紹介してあげるよいいですし、それでも解らなければそれはその人のペースなのですから仕方がありません。押し付ければ分離はさらに深まり、反発が生まれるだけですから。

他に具体的なものでこれについてというのがあれば、コメントにもらえれば、必ずしも私の中から正解が出てくるというものではありませんが、私なりに考えてみようとは思います。

とりあえず、こんなところです。

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