アセンションの時代

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幸せに「理由」がいりますか?

私たちは、幸せになるためには、そうであるための何らかの「理由」が無いといけないと思っています。

「恋人がいるから」幸せである。
「お金があるから」幸せである。
「出世したから」幸せである。
「家族がいるから」幸せである。
「ご馳走があるから」幸せである。

確かにそれらは、幸せを感じる主要な要素にはなり得ます。

そして、それらの「理由」が無い場合、私たちはなかなか自分を「幸せ」だと感じることは出来ません。

私たちは、3次元のこれまでの世界を、「当たり前」だと思って、その「当たり前」がどれほど驚異に満ちた奇跡的な世界であるのかに目を向けて来ませんでした。

多次元に渡る宇宙は、果てしなく広く、無限の生命形態が存在しているのです。

私たちは地球上の人間のあり方が、知的生命体の唯一の形態であり、当たり前で珍しくも何とも無いと無下に思って来ました。

井の中の蛙」とは、まさにこの事です。

無限ともいえる知的生命体としてのあり方の中で、私たちは地球環境の中に住む人間と言う形態を今、こうして体験できているのです。

この生命形態は、3次元特有のエゴによる分離的体験をするために、特徴的な物質文明を築き、直線時間という概念を有し、お金と言う独特な支配搾取的な社会システムの下での、徹底的な情報管理のもとで繰り広げられて来ました。

それら、それぞれがとても個性的な概念と仕組みであり、なおかつ地球環境は豊かな自然環境のもとで驚異的な多様性を有してきたのです。

私たちは、そうした1つ1つを「当たり前」として、その驚異やユニークさについてまるで考えようとはしないのです。

どうなんでしょうか?

確かにそうした仕組みの中で、お金や社会的地位、あるいは恋人を有して幸せを感じることも良いでしょう。もちろん、それはそれで素晴らしい経験であり、幸せに値する経験だと思います。

しかし、そうしたものが何も無かったとしても、私たちは、今こうしてこの世界を経験しているのです。この世界が全てであり、死ねば何も無いという考えに基づけば、それもそうかも知れません。そうであるのなら、死んだその先には成長も何も無く、この広大な宇宙からただ消えて無くなるだけなのですから。

私たちの社会には実際に、私たちと言う存在は死をもって消え去るのだと考えている人は、いまだにかなりの割合でいるのかも知れませんし、そうした学びを否定するものではありません。

しかし、その一方で、実際には宇宙は無限の広さと多様性をもっており、その中から私たちは今この世界を経験しているのだと知ることはとても有意義な事です。

それを知る事が出来れば、幸せである事にあらためて「理由」などいらないのです。

今ここに存在している、ただそれだけで私たちは幸せであるに値するのです。

しかも、言うのであれば、私たちは宇宙的にもかなり珍しく、簡単には他に例を見つけ出すことが出来ないような形でのアセンションを試みる、そんな時間帯を生きているのです。

私は常に、「この世界という驚異には、ハリウッド映画も顔負けだ」と思っています。

実際には、辛い事や不安など幸せとは対極の経験もたくさんあります。

しかし、それらがあっても無くても、全ては今ここで1つの驚異の世界を経験しているという前提の上での事なのです。

日常の中で、具体的に幸せである理由が何も無くても、ただここに存在しているというそれだけで、私たちは幸せである事に充分すぎるほどに値しているのです。
 

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