アセンションの時代

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パラレルワールド

今日はLeiさんのリクエストで、パラレルワールドについて書いてみます。

パラレルワールドについては、このブログでも何度か取り上げてきたことがありますが、私が繰り返し重要だと書いてきた「パラダイムシフト」の中でも、パラレルワールドと言う新しいパラダイムは、とても重要であると思います。

まず、パラレルワールドについて説明する前に、この新しい世界観との比較の意味で、これまでの私たちの世界観について確認してみましょう。

これまで、私たちの世界観の基準は「自分の外に現れた物質世界」であり、つまり唯一の宇宙、唯一の太陽系の中の唯一の地球に存在する物質的な唯一の自分というチッポケナ存在が、シナリオの無い人生を無から創り出していくように主に考えて来ました。

しかし、高次元の存在たちに言わせると、それは完全な幻想であり世界はその様には出来ていないという事なのです。

例えばこう考えてみてください。

私たちの世界には、電子ゲームというものがあります。この電子ゲームには、始めからあらゆる全ての可能性がプログラムされています。主人公がゴールまでたどり着くシナリオも、途中であらゆる場面でゲームオーバーとなるシナリオも、ゲームを始める前から全てプログラムの中に存在しているのです。

しかし、いくらプログラムの中にそれらが存在していても、プレーヤーがそれを選択して実行しない限り、それらの可能性が現実化することはありません。

そういうプログラム的世界の中で、プレーヤーは既にある無数の可能性の中から選択を重ねてゲームを進めていくのです。

私たちの世界と言うのも、実はこのように出来ており、パラレルワールドの世界観と言うのはこのようなものなのです。

つまり、私たちは既に存在している無限の可能性の中から、自らの波動によって「現実を選択し続けている」のです。

ゲームでは、選択は電子操作的によって行われますが、現象としては画面上の映像となって現れます。

これと同様に、私たちも自らの波動を変化させる事によって自らの進路を選択し、日常的な現実としてそれが現れているのです。

つまり、私たちはこれまで、自分を物理的な存在として考え、物理的な世界に存在していると考えて来ましたが、それは幻想、思い込みによる錯覚なのです。

実際には、私たちはそれぞれに3次元地球バージョンの、波動的可能性のプールの中を、それぞれに進みながら異なった地球世界を経験しているのです。

私たちはそうして無限の可能性の中を選択して進んでいるのですが、無限の中を何のあても無く進むのでは、どこでどうなってしまうのかまるでわかりません。

そこで、私たちはこの人生という経験を始めるにあたって、事前に自分が学びたい事を効率的に学べるように、ある程度の道筋をつけて生まれてくるのです。それが、ブループリント(青写真)と言われるものです。

さて、こうした前提を踏まえたうえで、頂いたテーマの本題に入っていこうと思うのですが、実はこうした世界観の中での、「自分と他の人」との関係と言うのが、私もイマイチ解っていないことの1つなのです。それでも、取りあえず理解の範囲内で書くだけ書いてみたいと思います。

テーマは、家族や大切な人が自分と違う波動域(次元)を選択した時に、お互いは別れを経験してそれぞれに違う次元を経験するのか、それともそれぞれに進んだ次元でその次元バージョンの相手と一緒に暮らしていく事が出来るのか?という事ですね。

これについては、どちらのパターンもありえるという事です。2012年冬至までは、自分と異なる波動の人たちとも、自分の世界の中で接してくる事が出来ました。

しかし、2012年冬至以降、自分の世界から自分と異なる波動の人が徐々にいなくなって来ているはずなのです。それは、転職・離婚・引越し・死別等々、色々な状況が考えられますが、いずれにしても自分と異なる波動の人が徐々にですが、減り始めているのです。

そして、そのスピードが急加速を始めるのが2015年~2017年なのです。

例えば、中国やギリシャやその他の国では、社会が急激に混乱し始めており、人々の生活環境が激変し始めています。波動的なことを言うのであれば、そうした国々は、波動的により幅広い人々が存在しているためにそうした大きく異なる波動の人々の引き剥がしが始まっているのだと捉える事が出来ます。

逆に日本では、ほぼ単一民族で共通した文化の中に存在しているために、そうした国々と比べると人々の波動が全体的に似通っているために、波動に応じて人々を振り分けるような社会変化が今のところそれほど大きくは始まっていないと考える事も出来ます。

ただ、人々の間の引き剥がしが比較的に緩やかだとしても、みんなの波動が低い状態では、次元を上昇していく地球・ガイアとの繋がりを引き剥がされる(つまり、みんなで一緒に3次元へ進む)事になるので、決してそれでよいというものではありません。

いずれにしても、早いか遅いか、激しいか緩やかかの多少の差はあっても、いずれ波動の異なる人は自分の世界からはいなくなっていきます。

この中で、例えば子供が高位4次元へ行き、親が3次元へ残る場合、その関係がどうなるかは先ほども書いたように一概には言えません。

混乱の中で生き別れる場合もあるでしょうし、死別する場合もありえます。また、Leiさんも書かれているように、別れを経験せずにいつの間にか自分の波動に相応しい相手(親や子)と一緒に暮らしている場合もあると思います。

これは混乱しやすいところでもあるのですが、パラレルな世界観に戻って考えてみましょう。

私たちは、親あるいは子というそれぞれのキャラクターを選択して、それぞれに3次元地球バージョン(アセンション編)を経験しているのです。そうした環境設定の無限の可能性プログラムの中をそれぞれに経験しているんですね。

これまでもある程度はそうであったと言えるのですが、自分が経験している他の人々(を含む世界)というのは、常に自分の波動の少なくとも一側面に共鳴した人々であり世界なのです。

人間の思考であまり細かく具体的に考えるには限界があり、また人間を経験していく上で、不完全な解釈でそれに捉われる事は得策ではないと思いますので、単純に要点だけを書けば、全ては自分の波動次第だと思うのです。

親が目の前の現実として感じている子供は、親の波動に共鳴して映し出された相手の波動の極々一部なんですね。

例えば、私たちは「自分という存在(波動)の極々一部」しか理解できていません。そのさらに極々一部の相手の波動に共鳴する部分の、さらにそのごく一部しか相手は自分を理解できていません。

それは、私たちがお互いをそんなにも理解できていないという意味ではなくて、お互いの存在は、私たちの想像を絶して多次元的に広大な存在であるという意味なのです。

従って、自分の知っている、多次元的に広大な存在である魂の、自分の子供役としての極々一部を全てと思って、その先の未来を過剰に案ずる必要は無いんですね。

大切なのは、「無限の中からこうしてめぐり合った経験を、「今」の中でより調和的な経験へと昇華させて行くこと」なのです。

相手を思う気持ちは無意味ではありませんが、相手の具体的な未来を必要以上に心配する事にはあまり良い意味はないと思います。

親子で進む次元が異なれば、別れを経験するパターンも、別れを経験しないパターンも、一方は別れを経験し一方は別れを経験しないパターンもあると思います。それは1つの世界をみんなで経験しているのではなく、無限の可能性世界をそれぞれに経験しているからなのです。

ただ、途中で一度述べているように、私にも多次元的な存在のあり方が理解できない部分も当然ながらあり、そもそもが人間の脳で全てを理解するには完全に無理がありすぎると思います。

それでも、人間として抑えておく要点はそれはそれとしてキチンとあり、先ほども書いたとおり「理解できない未来に捉われ心配するのではなく、無限の可能性の中からめぐり合えた経験に感謝し、「今」の中でより調和的に波動を高めあっていく」ことが重要だと思います。