アセンションの時代

2019年4月以降の主な更新はhttps://sunamibaku.blogspot.com/へ移転してます。

「分離的な世界観」とは

内緒さんからのリクエストで、「分離的な世界観」というのは具体的にどういったものかを書いてみようと思います。

どのテーマもそうですが、なかなか1つの記事で全てを書ききるという事は出来ないために、このブログ自体が同じようなテーマを繰り返し記事にしてきています。

たいてい、過去には同じテーマで書いていることがあると思いますので、もし興味を持たれたテーマなどがある時には記事の右わらの欄にあるブログ内検索を活用して、過去記事なども利用していただけると嬉しいです。

ただ、古い記事であるほど、現在と考え方が違う場合もありますので、疑問に思われた時には気軽にコメントください。

また、過去記事にあるかも知れないからそれを見つけ出さずには新たに聞きにくいなどとは思わずに、気楽にテーマをふってもらって大丈夫です。私も無理な時などは気楽に無理と言いますので、お互いに気楽に興味を探求していきましょう。

さて、本題に戻ります。

抽象的に「分離」と言いますが、具体的にはどういう状況や考え方を言うのかという事ですが、自分で全体を捉えられるように、全体を包括する抽象的な考え方から入っていきたいと思います。

分離とは「肉体的単位としての自己(いわゆる自分)と、それ以外の人や物等を含む世界の全て」を切り離して考える世界観を言います。

さらにもう一歩踏み込んで表現すると、「自己と他者(自己以外の全て)を差別する」ことです。調和においても「区別」は必要ですが、「差別」は必要ないのです。

こうして考えるとき、私たちの世界には「分離的価値観」がそこかしこに溢れています。いや、溢れているというよりも、その分離的価値観をもって、社会システムが構築されているのです。

例えばそれは「競争」という言葉で表現されます。

学校での勉強は、テストの点数によって優劣の価値判断をされ、その積み重ねの結果、受験という形で優秀と価値判断された者と不出来だと価値判断された者とでは、進路を選別される事になります。

全てがそうだと言っているのではなく、基本的な仕組みがそうだという意味です。

私たちがここで学んでいるようなスピリチュアルな事など微塵も教えてくれずに、一般的には受験以外では使うことの無い難しい数学の公式などを覚えたりすることで、進学・就職までもが差別されるんですね。

経済活動では、そうした世界はより「お金の仕組み」によってより完全なものに強化されます。

例えば1つの地区に1つのコンビニがあり、それで需要と供給のバランスが取れていたとします。しかし、そういうこの世界ではそういう問題ではないんですね。

他社のコンビニが直ぐ近くに出店し、お客(利益)の奪い合いをはじめるのです。

それを見てさらに他社のコンビニが、少し離れたに出店し2店の共倒れを狙って漁夫の利を得ようと目論見ます。

「間接的殺し合い」なんですね。それが、私たちの世界の経済の基本的仕組みなんです。それを「資本主義」と言うのですが。

1つの見方としては、人々の波動が3次元レベルである限りは、システムもそれに相応しい分離的なものが機能することになり、そうした意味からこれまで世界には分離的なシステムが機能して来ました。

しかし、今からそのシステムが完全崩壊するので、人々は自分がこれまでの分離的システム(3次元)へ戻るのか、それとも調和的なシステム(4次元)へ進むのかを選択する機会を与えられるのです。

例えば、その時により具体的に身近なことで、どの様に世界を捉えていけばよいのかを考える時、先に書いたような点に注意する必要があります。つまり、「区別すれども、差別せず」ということですね。

例えば、相手を敵と捉えないというと、分離的価値観においても、なかなか相手を敵とまでは意識しません。しかし、自分と相手を「差別しない」となると、あらゆる行動の1つ1つのなかにその考えはあらわれてきます。

また、自分の世界と言うのは、ある意味で自分によって全てが完結しているのだという事を理解する必要もあるかも知れません。

例えば嫌な人(Aさん)がいる場合、内緒さんも気付かれているように、自分の世界に現れているAさんは、Aさんという存在のほんの一部の現われでしかないのです。

自分が学ぶべき側面だけが、Aさんの一部を通して自分の世界に現れてきているのです。この世界とは、多次元世界の中のそういう経験の場なんですね。

Aさんが自分の世界に乗り込んできて荒らしているというのは勘違いで、自分が学びの上で必要としているから、Aさんのそうした一面を通して自分が引き寄せているんですね。

そうした現れに対する善悪の価値判断というのは、後付なんですね。

「自分勝手」という一面は、「子供の頃から虐げられてきて、周囲に絶望している悲しみの表れ」かも知れません。そうした相手の個性のごく一部を、分離的に捉えて価値判断を押し付けて批判しあってきたのが私達なのです。

しかし、視野が広がれば広がるほど、簡単には人を批判できなくなり、相手も自分と同様に分離的な世界の中で必死に学んでいる同志なのだという事がわかってきます。

そして、多次元的にそれを捉えれば、先に書いたように、自分の知っている相手は、どんなに深く知ったところで、その存在の極々一部の表れでしかなく、それは、自分の必要に応じて表れた、自分の世界バージョンの相手だということに気付くのです。

また、話は変わりますが、言われるように「物を愛の観点から捉える」というのも大切ですね。つまり、物はあくまでも道具であり、そこには善も悪も無いという事です。大切なのはそれを捉える人が、どういった視点からそれに接するかという事も言えますよね。

後は分離を象徴するものとしては、環境破壊なども言えますよね。自分と地球を完全に差別しています。自分が地球を少しくらい汚しても大丈夫でしょという思いは、意外と多くの人が抱いています。

テレビCMの暗示にかかって、食器洗いに洗剤を使う人は多いと思いますが、動物性の脂以外は、水で充分に綺麗になります。脂だけは洗剤を使うほうが楽かも知れませんが、私は肉自体をあまり食べませんし、そうし脂汚れにはお湯をかけて脂を流し落とします。

庭に草が生えてこれば、お手軽に除草剤を撒いて気軽に土壌汚染ををしている人も田舎ではよく見かけます。

また、中には洗剤や除草剤、あるいは農薬などが「毒」だという事を知らずに、綺麗にする良いものと認識している人も年配の人ほど意外と多いので、教育の大切さと言うのも強く感じますね。

あとは、小さなお子さんなどに接する場合や、テレビ・マンガなどを見る場合には、そのストーリーが分離的価値観に基づいている場合が多々ありますね。

印象的なキャッチコピーとして、「僕のお父さんは桃太郎という奴に殺されました」という泣いた子鬼を描いたものがあります。

分離的な価値観と言うのは、もう片方に立った時に、絶えずそうした現実を生み出しているのです。

つまり、「共存」の意識に欠け、「競争」の意識によりなりたっているんですね。競争で勝ったものが生き残り支配する世界、それが私たちの世界なんですね。

戦争はその最たるものですが、受験戦争も経済戦争も同じであり、ライバル店との競争も同じ事です。出世争いも同じです。

ただ、私たちは今はまだそうした社会システムの中で生きていますので、全てを否定して生きることは簡単ではありませんが、日常の中で内緒さんのように確実に取り組んでいくことは大切ですよね。

「区別すれど差別せず」「共存共栄」。人間関係など日常生活の中に、常にそうした前提が出てくるようになれば、素晴らしい事だと思います。

具体的というのも意外と難しいですね。(笑)

「競争」は基本的に分離の要素を含んでいると思います。その結果に優劣を付けなければ、必ずしもそうではないかも知れませんが。

各自が「個性を楽しむ」世界になれば、競争には何の意味も無くなるんですけれどね。これまでは、個性を殺して決められた枠の中で優劣を競っていたので、どうしても「競争」という物差しが幅を利かせた社会であったんですね。

それも急速に過去の話となっていくでしょうが。