アセンションの時代

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(1)2015年9月下旬以降に備える

(1)瞑想・自然浴

来月9月下旬以降に訪れる可能性が高くなっているカオスに突入した場合、精神性を高めてきている人々を含めて、ほとんどの人々が混乱に陥る可能性が高いと思います。

私たちの中には、「日常としての現実」「スピリチュアルな思想」という、一見すると相容れない2つの要素が共存しています。

本当に精神性の高い人々は、この2つに区別は無いのですが、私たちは基本的にそこまでの域には達していないのが普通です。

そうした2つが統一されきっていない、つまり、程度はともかくとして日常とスピリチュアルが分離した状態で、社会的な崩壊が日常生活を飲み込んだ場合、私たちの中でスピリチュアルはどこかへ吹っ飛んでしまい、パニックでお金をおろしに走ったり、日用品の備蓄に駆け回ったりして、完全に日常としての現実一色に染まってしまう可能性が高いです。

それはつまり、恐怖に駆られて3次元的な生き残りへと走っている状態です。

もちろん、場合によってはそうした行動も必要になるのですが、そうなってもまた速やかにスピリチュアルな自分との繋がりを取り戻し、主体をそちらへ移行させていく必要があります。

パニックに飲み込まれても、スピリチュアルな部分との繋がりを維持し、よりスピリチュアルな自分へと比重を移行させていくのに必要なものが、今回のテーマである「瞑想」「自然浴」なんですね。

パニックを生み出しているものは恐怖であり、スピリチュアルの対極にあるものなんですね。その時、パニックとスピリチュアルの間で綱引きが始まるのですが、通常は少なくとも一時的にはパニックが勝ってしまうものなんですね。

そのままパニックに飲み込まれ押し流されていけば、私たちは恐怖に駆られて3次元的な世界での生き残りに向かって一直線に走ることになります。パニックの状態のままで。

そうならないように、パニックの外側に立つために「瞑想」「自然浴」が必要なのです。

パニックというのは「心の状態」なんですね。

社会的な状況がこれまでの延長でなく、想定外の状況になった時に、私たちは激しい不安に襲われてパニックになるのです。

従って、社会的な日常の外に心をおく時間が大切になるのです。つまり、パニックを忘れる事によって、スピリチュアルな自分を呼び戻す事が大切なのです。

瞑想や自然浴をしている状態では、人々はパニックから解放され、スピリチュアルな、つまり理想的な自分を取り戻す事が出来ます。

瞑想や自然浴と言うと、その言葉だけでちょっと敷居の高さを感じたりして、格好や場所にこだわったり、時間を長時間割かなければならないと考えたりする人もいるかも知れませんが、決してそんなことはありません。

心を落ち着けて社会の喧騒から離れることが出来れば、形式や時間など問題ではないのです。

自分の中でそれを身につけることが出来れば、時間は5分程度でも充分ですし、1時間くらい出来るのであればそれも良いと思います。

1つの例としては、お昼に5~10分程度の瞑想を行い、夕方に5分程度の瞑想を行う。自分が混乱気味になった時には、その都度1~3分程度の瞑想で自分を落ち着け、休日に1時間以上の自然浴や20分程度の瞑想を行う。

瞑想は仕事で座っている状態で、ちょっと一息入れる感じで出来ますし、通勤電車の中でも出来ます。ようは、物理的な作業をしなくてよい常態であれば、あとは心の置き所だけの問題なのです。

自然浴は、緑地公園の散歩や街路樹の通りを歩いてもいいですし、川沿いのベンチで休むのも良いでしょう。

人の少ない海辺や山の中であればなお良いですが。

私は今では、そうした事が自分の日常の一部になっているので、特に時間等は決めていませんが、完全に習慣になっていないうちは、ある程度生活のリズムの中に意図的に組み込んで習慣化させるのが良いと思います。

なぜなら、習慣化させてしまわないと、パニックの状態ではそうした事はどこかに吹き飛んでしまう可能性が高いからです。

社会がパニック状態に陥った時に、その中に入りきっていつまでも一緒にパニック状態でいないために、そこから抜け出しスピリチュアルな自分を思い出す時間を、習慣の中にしっかりと組み込んでしまうことは大切です。

例え、パニック等が訪れなくても、そうした習慣は日々の生活の中で自分を大きく安定化させることが出来る習慣です。