アセンションの時代

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(3)15年後の新しい未来

(3)競争

競争もまた、私たちの常識に組み込まれた低波動に基づく概念です。

そもそも競争とは何なんでしょうか?

競争とは、共通する1つの物差しによって、それぞれの優劣を推し量るものです。

世界に一つだけの花」という歌がありましたよね。それが、4次元的な発想なんですね。多次元宇宙には、「優劣」というものは存在しないのです。

全ての存在は、無限の宇宙の中で唯一の個性として存在しており、それらに優劣をつけて競い合う事に意味など無いという事なのです。

「じゃあ、殺人犯もボランティアに励む人も同じなのか?」という極論を出したい人もいるかも知れませんね。(笑)

もちろん、それらは同じではありません。明らかな違いがありますよね。

しかし、それらは優劣の問題として違うわけではないのです。エネルギー状態に基づく経験の違いであって、優劣ではないのです。

私たちは誰もが光の高波動としての存在であり、その表現である無条件の愛を経験するために、あらゆる次元においてあらゆる角度からそれを学び経験し続けています。

なぜなら、それこそが私たちの本来の姿であり、そうある事が何よりも心地よく恍惚感に包まれた状態であるからなのです。

私たちは、もともと1つの無限の存在から生み出されたものであり、その1つの存在が、自分と言う「光・無条件の愛」をあらゆる角度から経験するために、存在の全てを生み出したのです。

つまり、私たちは1つの無限(一なるもの)が意識を持った状態(大いなる全て)から生み出されたものなのです。仮にそれを神様と言うのなら、私たちは神様の内に生み出された神様の一部なのです。

例えば、私たちは神様の産毛の1本、あるいは細胞の1つのような存在なのです。

例えばそれを手の指に例えた時、人差し指が親指を「お前は背が低いから劣っている」と言い、親指が薬指に「お前は力が弱いから劣っている」と言うような比較に何か意味がありますか?

まったくもって、バカバカしい話しです。

しかし、そのバカバカしい話に一生懸命没頭してきたのが私たちの世界なのです。

「いやいや、指は全て必要だけど、殺人犯は指とは違う。」と思われるかも知れません。

確かにそうとも言えるかもしれません。殺人犯は「がん細胞」に例えるのがいいのかも知れませんね。

「じゃあ、やはり悪者ではないか!」と思われるかも知れませんが、そうではないのです。がん細胞もまた、適応現象として人体に必要があって起きている現象なのですね。

現在の医学がそれを解明しているかどうかは知りませんが、この世界に「無駄」というものは存在する予知がなく、全ては必要だからこそ起きているのです。

例えば、もちろん人間としての視点からそれを肯定するという訳ではありませんが、多次元的な魂の視点からそれを言うのであれば、「殺人」という経験が存在する事によって、魂は実に多くの幅広く付随する経験をして、無条件の愛に関する学びを経験する事が出来るのです。

繰り返しますが、私たちは多次元的な世界からこの物理的な3次元という経験世界に学びに来ており、永遠の存在であるそうした視点から、1つの学びの経験の人生を捉えて言うものであって、その世界に入り込んでいる人間の視点からそういっている訳ではありません。

殺人と言うのは、無条件の愛の対極としての学びであり、苦しみと言う経験を周囲に広げる経験となります。

宇宙には絶対的な法則と言うものが幾つかあり、「与えるものが、与えられるものである」という法則があります。殺人犯は必ず、魂の経験としていつか、それとバランスが取る事の出来る経験を必ずすることになるんですね。

話がかなりずれて来ているようですが、ようは、存在する全てには必ずそれが必要とされている意味があり、「自分」はただ存在しているというだけで、自分にはそれだけの価値があるのです。

様々な比較で良いだの悪いだのと品評され評価される筋合いなど無く、「自分」とはこの多次元宇宙において唯一の経験世界であり、ただ存在しているだけで宇宙には欠かすことの出来ない必要な存在なんですね。

学校から押し付けられる勉強が出来ないからといって、どうという事はないんですね。容姿がどうだとか、お金を持ってるとか持っていないとか、あらゆることで競争することに何の意味があるのでしょうか?

意味など無いんですね。ただ、意味があると思い込んでいる間だけ、その人には意味があるのです。幻想なんですけれどね。

私たちは、そうした貴重な存在である「今の自分」を自分の中に受け入れ、自分と言う経験を力いっぱいワクワクと楽しみ、望んだ経験を積み上げていく事に意味があるのです。

それを、自分とはまったく異なる他の人の経験と比較して優劣をつけることに何の意味があるというのでしょうか。なんとも詰まらん競争です。

優劣の競争に勝つことを目指して、その物差しの上でちょっとばかり勝つことに価値を見出す心理と言うのは、自分の外側にこそ真理があるのだという誤解から生まれるエゴに基づいているんですね。

心理と言うのは、外側にあるのではなく、自分の内側に広がる世界にのみあり、それゆえ私達各自の存在は、何者であろうとも誰もが全て、ただそのままでも充分に尊い存在なのです。



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