アセンションの時代

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「信念」が経験世界を生み出す

(はじめタイトルに、「創造の主」という言葉を使って記事を書いたのですが、書き終わってからタイトルを変えています。)

創造主と書くと、ちょっと宗教的なニュアンスが抵抗を受けるかなぁとも思ったので、創造の主としましたが、こういう言葉は既存の宗教とは関係なく、これから私たちが考えていかなければならないものなので、新しい概念を持ってそうした用語も受け入れていくと良いかも知れませんね。

例えば、宗教的な創造主というのは、人類を作り出しておきながら、自分の思うように動かないと罰を与えるというように、とても人間的な存在で、人間の想像がつくり上げた神だという事が良く分かります。

スピリチュアル的な用語としては、はじめに存在した全てを「一なるもの」と呼びます。そして、その一なるものが意思を持った時に「大いなる全て」となりました。多次元世界創造の物語は、そこから始まったのです。

そして、世界の創造は「自分自身の探求」であり、私たちは「大いなる全ての一部」であり、その細胞の1つだとも言えるのです。

大いなる全ては、自らの細胞に罰を与えたりはしませんが、全体的な調和を崩すような働きをすれば、ごく自然な法則的作用として、その細胞は自ら負荷を引き寄せる事になります。

このように、「創造主」という単語1つをとっても、それに対する概念が誤っていると、同じ言葉を使っていながら、まったく違うものを思っていたというような事になると思いますし、これから長期的な話として、日常の中でもスピリチュアル的な話をする機会が増えてくると、そうした誤解に直面する事が多々あることだろうと思います。

宗教的なニュアンスのある用語を聞いただけで顔をしかめるような人達は、基本的にスピリチュアル的に正しい理解をしていない可能性が高く、その誤解を解いてから出ないと、なかなか本格的な話しには踏み込んではいけないでしょうね。

誤解したままそれを信じている場合には、それ以上に厄介とも言えますが。

さて、話を本題に移して行きたいと思います。

何が、私たちの世界を創造しているかという話しです。

私たちの世界は、多次元に渡る多くの存在たちによって想像された1つの賜物なのです。

例えば、3次元的ヒューマノイドの原型を創造したのは、アークトゥルスの存在たちであるようで、彼らは私たちが利用している多次元世界の仕組みのスペシャリストでもあるようです。

しかし、それではアークトゥルスが地球次元の全てを創造したのかというと、決してそのようなことは無く、さらに高次元の神々の存在などとても多くの存在たちによって創り上げられているようです。

そして、それらの全てが「大いなる全て」の一部であり、私たちもまたその一部である訳なのですが。

では、そのように私たちより遥かに高次元の存在達によって創り出されたこの世界の中で、私たちがこうして存在している意味があるのでしょうか?

実は、あるんですね。私たちの世界においては、私達自身こそがキーパーソンであって、私たちがある意味ではこの世界の頂点に位置しているのです。

つまり、こういうことです。

高次元の神々たちが最高の舞台を用意し、その舞台に上っているのが私たちなのです。

舞台は劇を演じるためにあるものであり、そこでいかなる劇が演じられるかは、役者としてその舞台に上っている私達次第なのです。

私たちがそこで経験し、感じたものが、大いなる全ての経験の一部となり、全ての存在の財産となるのです。

私たちは、地球と言う舞台を当たり前の舞台と思って体験していますが、その地球を体験するという経験自体が、無限の世界を持つ大いなる全てにとっては、1つの貴重な経験であるのです。

私たちは地球しか知らないために当たり前と思っていますが、無限の世界を知っている存在にしてみれば、地球と言う個性的な世界での経験は、かけがえの無い1つの特別な経験であるのです。

それは、息を吸い空を見上げ、森を歩き花を見つけるという、他の多くの惑星には無いかも知れない特別な経験なのです。

私たちは、高次元の存在とコンタクトを取る機会があると、自分達の未来を聞きたがります。

高次元の存在達は、抽象的に答えたり、曖昧な表現で答えることが一般的です。あるいは具体的に答えたとしても、それは可能性の1つの例としての答え方である事が多いです。

なぜなら、彼らにさえも私たちの未来を知ることは出来ないんですね。未来の経験は決まっていないのです。

無限の可能性は既に決まっているのですが、その中から私たちがどれを選択するかという事は、決まっていないのです。

それを決めるのは、私たちが毎瞬重ねている選択の結果なのです。

そして、私たちは何をもとに毎瞬の選択を重ねているかと言うと、「信念」をもとに選択を重ねているのです。

つまり、私たちの経験世界を創造しているものは、「私達自身の信念」なのです。

舞台を想像しているものは、高次元の神々たちなのですが、その舞台での経験世界を生み出しているのは、役者である私たちの「信念」なのです。

つまり、内面深くで信じているものが、経験となって世界の中に現れてくるのです。

私たちが経験を変えたいのであれば、私たちはまず「信念」を変えなければなりません。

単純な話として、私たちの信念の1つの特徴として「不足」というものがあります。私たちは、常に満たされていない足りない状態にあると信じ込んでいます。

バシャールはユーモアを持って、私たちのこうした信念を、宇宙的にかなり珍しくほとんど最大級のジョークでさえあると言っています。

つまり、私たちは基本的に満たされた状態であるのですが、私たちはその満たされた状態を最大限にフル活用して、満たされていないという信念を創り出しているのです。

そして、私たちは満たされていないと言う事がどういう事なのかを、これまで経験し続けて来ました。

私たちは満たされた世界にありながら、「不足」を感じています。分け合えば充分に足りるものであっても、不足が生み出す未来への不安から、握り締めて溜め込むことを選択します。

どれだけ溜め込めば充分と感じられるのでしょうか?実はどれだけ貯めても、満たされることは無いんですね。そもそも「不足」が幻想であり、幻想に戦いを挑んでいる事に問題があるのです。どれだけ溜め込もうと、幻想は変わらずに付きまとうものです。

しかし、その幻想的「信念」を手放せば、私たちは「満たされた」状態を思い出すのです。そして、満たされた経験がやってきます。

私たちが「不足」という幻想から逃れるために、必死に貯金をしてきました。

しかし、何とか幻想から逃れようと溜め込んできたその貯金は、これからあっという間に紙切れに変わります。私たちが「信念」のなかに「不足」を持っている限り、このように不足から逃れることは出来ないのです。

しかし、その紙切れとなってしまう富を、溜め込まずにこれまでみんなで分け合い支えあってきたらどうなっていたでしょうか?

恐らく貧しい国にも豊かさが届き自立がなされている事でしょう。災害などで危機に陥った時には、これまでとは桁違いの援助が届く事でしょう。

私たちの世界の不足は、私たちの信念が生み出しているのです。

そうした信念が、不足に基づいた競争的搾取的社会システムを生み出したのです。

そして、今、その社会システムが崩壊を始めており、近々そのスピードは誰の目にも明らかに一気に加速する可能性が高くなっています。

私たちは豊かに満たされているのだと言う事を、私たちが「信念」として受け入れられるかどうかが、これからの未来への大きなハードルとなります。

不足を信じている状態からは分離が生み出されるんですね。つまり、奪い合いの競争です。満たされている事を信じられるからこそ、調和が生み出されるのです。

私たちが不足を信じた1つの大きな原因として、物質主義が挙げられます。私たちは物質を手に入れることが幸せだと信じたのです。これまでの世界では、物質には限りがあり、私たちの波動の低さもあって奪い合いが行われて来ました。

それは腕力的な奪い合いばかりでなく、経済的な奪い合いも含めてです。

しかし、私たちが幸せは心の状態であり、内面的世界は無限であることを知れば、それだけでも大きく満たされた状態に近づくことが出来ます。物質は確かにこの世界では必要ではありますが、これまでのような過剰なこだわりを捨てて、心の波動を分け合えば、お互いに物を分け合い支えあう社会を生み出すことも出来るのです。

この世界での経験を生み出しているものは、私たちの「信念」だということを理解することは、未来に新しい経験を生み出す上で有意義な事だと思います。