陰謀論と主体性
スピリチュアルに関心を持つ人たちと同じように、陰謀論に関心を持つ多くの人たちがいます。
陰謀論自体は実際に存在して機能しており、スピリチュアルな人たちの多くも、それを承知してはいますが、それに囚われてはいません。
スピリチュアルな人々は、主体は自分にあるという事を知っているのです。それは、知識として知っているに限らず、例えそうでなくても、生き方として自分に主体を置いて生きているのです。
ところが、その様に自己を主体とするスピリチュアルな世界に進まず、自己を犠牲者として位置づけ、ネガティブな存在たちに主体を置いて世界を感じ取っている人たちもいるのです。
それが、陰謀論に囚われた人々です。
そして、面白いことに、自己を犠牲者(被害者)として位置づけている人たちは、私達の想像以上にいるのかも知れません。
私自身も、そうした過程も経ながら進んできている訳で、言うまでも無く批判や価値判断をしている訳ではありません。
ただ、そうした情報に囚われていると言うことは、まだ、自己を被害者として位置づける世界の中で生きていると言う事であり、自己に主体を置いて生きる段階へと移行できていない事を意味しています。
陰謀論というのは、それを承知した上で無視すれば、やがては消えていくものなのです。
しかし、そこに意識を集中すれば、陰謀は益々大きくなり、決して消えることはなくなってしまうのです。
つまり、自分に主体を置いた人は、自分が主体性を握った世界を生きることになりますし、他者に主体を置いた人は、他者に主体性を握られた世界に生きることになります。
これは、難しいとか、何でとかいう話ではなくて、単純に多次元世界はそういうふうに出来ているという事なのです。
水は上から下に流れていくというのとまったく同じように、自分の選んだものを経験することになるというのは、単純にそれが法則だという事なのです。
多次元世界は、そうした法則があるからこそ、こうして整然と目の前に秩序だって存在していることが出来るのです。
法則が無かったら、ドロドロぐちゃぐちゃのカオス状態であり、世界が世界として成り立つことは出来ないのです。
そして、そうした法則は、とてもシンプルな本質を持っています。それが複雑であっては、やがて維持できなくなってしまうのです。私達の社会のように。
本質は単純なんです。それを複雑にして、解らなくして経験してみているのが私たちなのです。