アセンションの時代

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抵抗せずにそっと離れる

今日は、さとさんから頂いたコメントについての返事として、記事にしてみたいと思います。

まず、アセンションという変化が、社会にどのように表れる傾向を持っているのかを確認してみましょう。

例えば、これまでの常識の中で、より良い社会へと向かうためにはどうしたら良いかと考える時、それは政治であり選挙を通して変えていこうというのが一般的な考え方になります。

しかし、社会に分離的な価値観が浸透してきた状態の中で、選挙という多数決で選ばれるのは、一般的には、より分離的な社会に適応した人々なのです。

そしてそれは、マスコミや検察、お金、利権等々というシステムとも相まって、完全に分離的支配システムを維持するための仕組みなのです。

選挙で、政治で社会を変えようとする事は、根本的に無理な事なのです。ただ、そうした現実が急速に変わり始めていることも事実ではありますが、それでもなお、主導するのは政治ではありません。

社会に問題がある時、アセンションという視点から大切な対応というのは、その仕組みや出来事に「抵抗しない」という事です。

「悪い(ネガティブな)事を変えていこう」。実はこれは、ポジティブなように見えて、実はネガティブな発想なのです。主体が悪いことに置かれているのです。

「良い(ポジティブな)事を実現していこう」。これが、ポジティブな発想なのです。

この時、ポジティブな事を実現しようと思ったら、ネガティブな政治というシステムを利用することは、現実的な選択とは言えません。ポジティブを実現するために、ネガティブに染まらなければならないのですから。

例えば、「原発廃止」を政治主導で実現しようと思ったら、それは無理な話です。それに付帯する既得権益の抵抗や、経済的な問題に突き当たり、頑張れば頑張っただけ、より大きな抵抗を招くことになってしまうのです。

その時にどうしたら良いかと言うと、自分の現実・日常の中で、「ポジティブな事を実現させていけばよい」のです。

太陽光パネルを取り付けたり、クリーンエネルギーによる電力会社から電気を買ったりという具合に。

すると、自分の周りにもそうした人々が増え始め、政治的にも原発を推進する意味が無くなっていくのです。

問題に抵抗せずに、そこからそっと離れ、自分の選択を実現する事が大切なのだと思います。こうした社会変革の手法は、「ムー」の持っていたエネルギーに通じるものがあるそうです。

欧米などは、大規模なデモなどで、抵抗で打ち負かしてそれを乗り越えようとする傾向が時々見られ、日本などは平和ボケでそうしたパワーが見られないと言う人々もいますが、実はそうではないんですね。

アトランティスのエネルギーを持ったアメリカなどと、ムーのエネルギーを持った日本などでは、問題へのアプローチの仕方が異なるという事なのです。

日本人・ムーのやり方というのは、抵抗せずにそこから離れていき、離れたところで自分の生き方を実践するというものであり、それが今回のアセンションの鍵でもあるのです。

つまり、政治に期待するというのは遠回りどころか、泥沼に自ら入っていくようなものだと思います。

ただ、社会で生きていれば、そうした色々なお付き合いもあると思いますので、それを正面きって跳ね除けて敵をつくる必要は無く、無理の無いところで離れていけば良いのかも知れませんね。

政治に変えてもらおうと努力するのではなく、自分の日常にポジティブを現実化していこうとすることが大切だと思います。

これまでの物理世界の常識では、自分ひとりが変わったところで、社会は何も変わらないというものでしたが、多次元的な世界の真実は、世界を変えるには自分を変えることが一番にして唯一の方法だということなのです。

自分の波動が変われば、引き寄せられてくる現実がそれに相応しいものへと変わっていくのです。自分はちっぽけな一人ではなく、世界は自分の波動が物理的様式によってホログラムで映し出されたものなのです。世界の全ては、自分が生み出しているんですね。

そして、ガンジーキング牧師についてですが、彼らの生きた「暗闇の時代」と、私たちの生きている「アセンションの時代」とでは、前提となる環境が大きく異なります。

キリストなどもそうですが、彼らはあちこちに光の花が咲き乱れることが不可能な時代に、その種を絶やさないために、人々の心の中に、光の種を蒔いた人たちなのです。

今は、そうした種が人々の中で芽生える季節にあるのです。従って、未だに暗闇だと思い込んでネガティブな環境を探してはそこに意識を向け続ける必要はないのです。

ガンジーキング牧師は、素晴らしく波動の高かった人たちだと思いますよ。

ただ、見方は色々な見かたをする事が出来ると思います。例えば、バシャールなどの高次元存在や、エックハルトなどのマスターたちに対してさえ、詐欺だとか金儲けのためだと見る人は実際に大勢いるのです。

そうした、様々な見方を何かに統一する必要はないのです。それは、無意味なんですね。世界というのは相対的に成り立っており、見る者と見られる者との「関係」によって成り立っているのです。

従って、見られる者が同じ1人であっても、見るものが100人いれば、そこには100のその人に対する評価があることが自然なのです。

つまり、大切なのは、「自分がその人をどう解釈するか」という事にあるのです。結局それは、その他の世界の全てと同様に、自分自身を映し出す鏡だと言う事なのです。