楽しむこと
私たちは、なぜ存在しているのでしょうか?
それには、色々な意味があります。そして、色々と崇高な解釈が生み出されてもいます。
しかし、その問いを、どこまでも本質に向かって遡っていくと、結局その答えは1つに集約されるのです。
「わからない」
実は、私たち存在する全てのものは、その総体としての「大いなる全て」の一部として存在しているのですが、その「大いなる全て」からして、なぜ自分が存在しているのかを知らないのです。
考えても、わからなかったんですね。従って、私たちにそれがわかるはずがないのです。私たちその一部としての存在がわかるのであれば、全体としての大いなる全てにもわかるのですから。
そんな時、大いなる全ては、何を始めたと思いますか?
その分身である私たちは、何を始めますか?
なぜ存在しているかわからないけれど、自分は存在している。しかも、時間は無限にある。能力も無限にある。
存在目的があれば、その目的のために動くのですが、目的がわからないのです。
そんな時は、普通は誰もがこう思うのです。
「何か楽しいこと無いかなぁ。」
そして、それを探し出し楽しみ始めるのです。何かしていれば、自分が存在している意味・目的もわかってくるかも知れない。
そして、大いなる全ては「創造」を開始して、私たち無限の存在が全体の一部として生み出されたのです。
色々と崇高に考えたければ、それは捉え方次第で、それっぽく立派に存在目的を掲げることは出来ます。
しかし、どんなにそれを難しく崇高であるかのように掲げたところで、全ての始まりはそこにあり、私たちは、取り合えず「楽しむため」に存在しているのです。
そして、そうした楽しみの段階にも色々あって、私たちはより大きな楽しみを追求しているのです。
4次元を目指すのだって、そうですよね。
争いの3次元より、調和の4次元の方が楽しいですもんね。
だけど、目先に囚われて限定された意識でいると、3次元の方が楽しいように感じてしまうのです。
私たちは、3次元での癖から、難しいことを崇高に受け止めようとして、面白くない状況を生み出す傾向を持っています。
修行をして4次元へ行くというのは、3次元的な発想なんですね。
4次元とは、楽しみながら鼻歌歌ってスキップしながら行く世界なのです。(笑)
ただ、より拡大した楽しみを求める過程で、3次元的な思考を手放す段階においては、切り離される3次元的なエゴが悲鳴を上げ、それを自分の事であるかのように感じてしまいます。
3次元では、エゴが自分だと錯覚していましたから。
しかし、エゴって、自分が一時的にこれまでの世界でまとっていたものであり、本当の自分ではないんですね。
だから、手を切ってしまえば、あとは楽しむだけですよ。スキップしながら笑って4次元に行くだけです。