アセンションの時代

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「思考」が現実を導く

私たちが、この先の変化の過程に入り始めるにおいて、最大の足かせになるのは「恐れ」です。

それは、「恐れる出来事」ではなく、その出来事を「恐れる心」そのものなのです。

これまでにも繰り返し書いて来ている様に、これから先に進むにあたっては、「崩壊」に象徴される出来事が立て続けに起こることになります。

数ヶ月から数年という単位の中でそれは進行し、例えば金融システムの崩壊は預金封鎖へと繋がり、最終的にお金は紙切れという本来の価値に帰る事になるかも知れません。

経済システムの崩壊は、職場の倒産を招き、失業として表れて来るかも知れません。流通が滞れば、生活必需品を手に入れることも難しくなっていくかも知れません。

さらに、そうした出来事に、自然災害という地球の変化が加わるので、都市部で生活を維持することは難しくなっていくのかも知れません。

これらは、ただ、淡々と起こっていく出来事なのです。それをどう受け止めるのかは、各自の問題であって、これらは「恐ろしい出来事に決まっている」と解釈するのは、単にその人の個人的な見解に過ぎないのです。

しかし、これまでの分離的な価値観からそれを捉えれば、やはりそれらはかなりの恐ろしい出来事として受け止められることでしょう。そして、「そう受け止めることによって」かなりのパニック的な混乱に陥るかも知れません。

しかし、それは絶対的な経験ではないのです。そうして起きた「出来事」事態は、ある意味で絶対的であると言えるでしょう。しかし、それをどう「経験」するかは、人それぞれの受け止め方次第なのです。

それをアセンションという視点から、旧システムの崩壊と捉え、その先に新しい調和的な未来を見据えていれば、決してそれは恐ろしい経験にはならないのです。

しかし、こうした「言葉面」でそれを知っているだけで、それが「思考」、さらにはその深層に広がる「信念」にまで定着していなければ、結局それは追い詰められるほどに「妄想への逃避」としてしか感じられず、信念がもつこれまでの分離的価値観によって現実、つまり恐怖を引き寄せてしまうことになるのです。

「信念」にまでそれを定着させるには、「思考」を重ね、「経験」を重ねる必要があり、時間がかかるのです。だから、これまでにすでに完了させて起きたかった事ですし、それが出来ていなければ、「今」すぐにそうした視点を自分の中に持ち始めることを意識して行きたいところなのです。

この様に、「同じ出来事」であっても、そこから生まれる「経験は人それぞれ」なのです。

そして、そうしたそれぞれの経験の先には、今度は「違った出来事」がそれぞれに引き寄せられてくるのです。それは、物理的な世界観に囚われている限りは理解することは困難な、エネルギー(波動)的な世界の仕組みなんですね。

そうした分岐を繰り返して、大きく言えば、私たちは3次元に残る世界と4次元に進む世界とに分離を加速させているのです。

例えば、自分と大きく価値観の異なる人というのは、様々な理由によって日常の中での接点が失われて行くことになります。

(もし、興味のある人は、電子書籍「多次元世界の仕組み」や、関連する過去記事が参考になると思います。)

私たちの目の前の「経験世界」と言うのは、「出来事」が主体となって生み出されているのではなく、「思考」が主体となって生み出されて(選択されて)いるんですね。

つまり、これから「混乱する社会」が、目の前に映し出され始めた時には、「恐怖に囚われてそれに参加する」事も出来ます。そうすれば、そうした思考が3次元的な争いの現実を引き寄せてくる事でしょう。

決して、それも劣った判断や失敗という訳ではなく、魂としての貴重な学びの機会なのです。選びたい人は、それを選んでも良いのです。私の好みではありませんが。

あるいは、その混乱とは距離を取り、調和的な社会に向かうための一時的な過渡期であるのだと俯瞰することで、コツコツと自分の周囲に自分が生み出せる調和を重ねていくことも出来ます。

そうした波動は、自然と4次元的な世界を引き寄せます。なぜなら、そうした波動自体が既に4次元的なものであるからです。

私たちの意識は「出来事」に「依存」し過ぎています。2016年の秋になれば、何か大きな出来事が起こり、社会を調和的に変えてくれると「楽しみに待っている」人が少なくないのかも知れません。

しかし、出来事と言うのは、「自分が何者であるのかを表現するためのキッカケ」なのです。

それによって、自分が4次元へ行くに相応しい事を表現できれば4次元へ向かっていきますし、3次元へ留まるに相応しい事を表現すれば3次元へ留まることになります。

結局、カギは「出来事ではなく自分にある」のです。

お待ちかねの出来事が起こっても、そこで3次元的な自分を表現したのでは、自分の責任において自分の期待を裏切ることになってしまうのです。

3次元に留まることも、失敗や落ちこぼれたという事ではありません。それは魂が「必要」とする経験なのです。

しかし、基本的に私たちの魂は、4次元へと移行することを「期待」しています。

より大きな自分自身の期待に、この次元の私たちは応えたいものですね。



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