精神探求のあり方
宗教関連で何かと言うリクエストを頂きました。宗教だけについて書くと、それを否定しているかのように誤解されてしまうかもしれないので、宗教・無宗教・スピリチュアルについて、それぞれ私達は何を模索しているのかを簡単に比較してみようと思います。
ネガティブな側面があれば、それを把握する必要はありますが、必要以上にそれに囚われて追求する事は、あまり望ましくはないと思いますので、今回は広く浅くの視点で書いて見ます。
宗教と言うのは、組織的要素がとても強いと言えますよね。教祖と言う最高権威に基づく、ピラミッド型の組織によっており、その拡大を目指す傾向が強いと言えるのかも知れません。
その拡大が、縄張り争いでぶつかれば、宗教戦争に発展するわけで、世界的にはそうした戦争が今も頻繁に繰り返されているのです。
「権威」と言うのは、自分の外側を権力で飾り立てる事であり、自分の内側に不足を感じているからこそ求める、外側への欲求からくるものですよね。
宗教は、心と言う「自己の内面」をテーマとして扱っているようでありながら、実は「自己の外面」から答えとされるものを与え、その外面に依存する事で内面が救われると教えているのです。
結局、ピラミッド型の組織を支えるのは、「権威」と「依存」なのかも知れませんね。
そこでは、自己の内面の調和にとって欠かす事の出来ない「自立」はタブーなのです。それでは、組織を維持する事が出来ません。
組織に依存させてこそ、組織は拡大していくのです。
かつての時代であれば、それでは「無宗教」が正しいのか?と言うように二択しか選択肢がありませんでした。
そして、その無宗教がより真理に近ければそれも良いのですが、決してそうではないんですね。
無宗教では、生命は偶然に誕生したと思われて来たのです。
つまり、「存在に意味は無い」と言う事なのです。よって、後付で自分勝手に意味を付けるしかないんですね。
すると、「なぜ、悪い事をしてはいけないの?」と子供に聞かれても、答えに窮して「いけないものはいけないんだ。バカな事を言っているな。」としか、返せないんですね。
犯罪者が、それぞれの理屈によって自分を正当化しても、私達の存在意義と言う根本からの一貫した精神的な回答を持っていないのです。
だから、法律を作り、その法律はより細かく細かく拡大して行き、社会を硬直化させていくのです。
精神性によって社会を治めていくことが出来ないために、法律と言う申し合わせ事項を作ることで、秩序を保っていこうと勤めるのです。
そして、ここ30年くらいで、急速に世界で拡大しているのが、日本では「スピリチュアル」と言う言葉に象徴される流れです。
これは組織的ではなく、各個人が内面の探求を進めていく事に重点が置かれており、そのなかで生命の存在意義についても深く考察されていきます。
私達の世界観は、高次元存在たちの導きもあって、スピリチュアルと言う方向性によって、大きく変わり始めていることは疑いようもありません。
ただ、スピリチュアルと言う単語に関わる事で、それを免罪符のように扱う傾向も一方にはあるんですね。
例えば、パワースポットへ行ったり、パワーストーンを持つことを主目的とし、自身の内面と向き合う事をせずに、そのパワーに依存してしまっているのです。あるいは、何十万円を払う事でハンドパワーを注ぎ込んでもらうとか。
そうなってくると、言葉はスピリチュアル系であっても、外側への依存により成り立っている宗教とあまり変わりないんですね。
私達の世界では、この様に色々な側面から、自分の波動に在った方法によって、精神世界の探求が進められています。
そうした中で、今の私達の大きなテーマの一つは、「依存からの自立」です。
教祖様に答えを与えてもらうのではなく、自己の内面に答えを見つける事です。
そうした流れに沿った、「スピリチュアル」と言うジャンルが、世界的にこれだけの大きな流れに「なり始めている」事自体が、アセンションと言う過程を表しているのかも知れませんね。