アセンションの時代

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自己の拡大

3次元の世界に居た私達は、世界を自分とその他とに分離して捉えて来ました。

肉体に基づく自己のみを自分として、自分ではない世界の中で孤立した経験を生み出し続けていたのです。

感覚とは、物質的な世界の法則に基づいて、自らのエネルギー体によって生み出されているものであり、エネルギー体は信念・思考によって柔軟にコントロールされています。

つまり、信念・思考が、自分は物質的存在であると決めれば、エネルギー体はそれに対応した経験を生み出し、自分は物質的存在であると言う感覚を生み出します。

ここに、人間の「見せてくれれば信じるけど・・・」と言う思考の落とし穴があるのです。

スピリチュアル的に良く言われるように、「信じたものが見えてくる」のであって、その逆を求めていたのでは、経験は一向に変化する事はないのです。

では、自分の肉体としての経験は幻想であり、自分はエネルギー的な存在としての意識であると言う信念・思考を持ち始めると、私達の経験はどの様に変化し始めるのでしょうか?

これまで肉体と言う枠を絶対的な境界線として、その内側に自己の感覚を置いてきたのですが、そうした感覚がエネルギー体によって肉体と言う枠に囚われない領域に広がり始めるのです。

正確には次元が異なるので、肉体の内とか外と言う表現は正確ではありませんが、あえて言ってしまえば、感覚が肉体の外側にまで広がると言う事なのです。

感覚と言うのはそもそもそう言うものなのですが、信念・思考の思い込みによって、私達は肉体の中にそれを閉じ込めて経験してきただけなのです。

例えば、「ドアで指を挟んだ時」を想像してください。

その痛みは、指の神経を伝って脳が感じ取っているものだと、私達の信念・思考は言うかも知れませんが、本当にそう思いますか?

実際にはその痛みは、私達のエネルギー体の全体に渡ってエネルギーの波紋として衝撃的に広がっているのです。

自分がエネルギー体として物理的経験を生み出していることを、信念・思考によって受け入れ始めると、そうした極端な例でなくても、五感によって感じる感覚が、徐々に肉体と言う枠に囚われない自分のエネルギー体の中で起こっていることが感じられてくるのです。

そして、そうしたエネルギー的な感覚が、徐々に拡大していきます。

この拡大と言う表現にも誤解が生じやすいかも知れませんね。私達の感覚で言う拡大と言うのは、「距離・空間」を前提としており、それは3次元領域特有の感覚なのです。実際には拡大と言うより、深みを増すと言う感じでしょうか。しかし、それはそれで私達の感覚からは誤解が生じそうであり、実際にはそれらがミックスされたような感覚だと言えるのかも知れません。

自分の感覚が周囲の空間領域をカバーしだすと(あるいは、周囲の空間領域が自分の感覚の中に納まり始めると)、それを調和的に感じる事で、より自分のエネルギー対に馴染んで浸透してくる事になります。

例えば、目の前の庭と言う空間が自分の感覚の中に治まり始めると、空間・風・音・木・花・鳥・虫・・・・、と言うものをバラバラに感じていては自分のエネルギー感覚の中にそれらのエネルギーが馴染んでこないのです。分離していてそれらのエネルギーを感じられない感じですね。

例えば、土にはミミズや菌・虫たちがたくさん居て、枯れた草や落ち葉を分解しています。それを木が栄養として吸い上げ、風に吹かれ日の光を浴びながら花を咲かせます。すると蜂や蝶たちが飛んできて受粉を手伝います。土からは水分が空気中に取り込まれて上昇し、やがては雨となってまたこの地に循環してきます。

全てが一体的に存在しているんですね。そうした経験の全ては、自らのエネルギー体の中で幻想的に生み出されているのであり、それを自分は肉体だと信じて分離的に経験する事も出来ますし、エネルギー体として一体的に感じ取る事も出来るのです。

それは、単に各自の選択に過ぎないのであり、私達は誰もが本質的には同じだけの能力を持ち合っているのです。

そして、良くある誤解なのですが、そうした世界は、「信じれば見えてくる」のですが、「信じた真似をしても見えてこない」のです。

私達は、信念の表層にある思考にのみよって、「信じたけれど見えない!」と文句を言いますが、それは無理な相談なのです。真似をしていると言う事は、実際にはそうなってはいないと言う事なのです。

自分自身が全てにおいてそうなり切らなければならないんですね。全てを投げ捨ててそうならなければならないと言う外的な問題ではなくて、社会を生きる上で部分的には物理世界の現実とバランスを取りながらも、その内面は完全にそうした世界観による自分になっていなければならないと言う事です。

ああ、別に、ならなければならないと言う訳ではないのですが、アセンションと言う方向に進むにはそうした方向に進路を取る事が効率的だという事なのです。

今は、全てが転換の時を迎えており、新しいものに対しても古いものに対しても、誰もが疑心暗鬼になっている部分があります。こうした情報についても、本当かも知れないけれど、違っているかも知れないと言う思いがあるのは普通の事だと思います。

従って、まず、自分のその気持ちを信じればいいんですね。

まだシックリとこないと言う事は、進んだり戻ったりしながらもう少し自分の中に馴染ませる時間が必要だと言うことなのです。あるいは、自分の進もうとしている方向とは違うと言うことなのかも知れません。そうであるのなら、もう少し幅を広げて、自分の進む方向を探してみれば良いのです。

訳がわからないけど、置いていかれるのが怖いから、とにかく信じて付いていこうと言うのは、良くないんですね。それは、恐れや依存に基づく反応であり、必ずそうした行動の先には裏切られたと言う失望感が着いてくることになります。

自分の立ち居地を受け入れて、そこから一歩一歩進んでいく意外に、私達が前進するすべは無いのです。立ち居地を否定して焦っても、空回りするだけで進んではいないんですね。

幸いにも、まだ社会はそれなりの平静を保っていますので、今の内に日常現実のドタバタ劇と言う車輪車から降りて、地に足をつけて進み始めたいものですね。



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