アセンションの時代

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貴重な経験

昨日も夜中の2時過ぎに目が覚めてしまい、しばらくエネルギー感覚に浸っていました。しかし、感覚が強いのは確かなのですが、先日も書いたようにエネルギー感覚に距離感が無くなっており、これまでの様にはやや感じ取りにくくなっており、その内に飽きてしまったので、そのまま、午前3時頃から熱田神宮鳳来寺山へ向かって出かけました。

子供はこの土日は、母親とお姉ちゃんの所へ泊まりに行っていましたので。

まず熱田神宮へ向かうその途中で、珍しい経験をしました。貴重な経験だったと思います。

頭で理解できている事と、実際にその場で行動に移せるかと言う事は、別の問題であると言えます。

例えば、車が何かに突っ込んだ時、取りあえず大丈夫か様子を見て必要なら救急車を呼べば良いと思いますよね。

これって、実際の行動としては、簡単な事じゃないんですよ。

突然リアルに、目の前や近くでそれが起きると、「顔から突っ込んで肉がえぐれてたら…、腕が千切れていたら…、足があらぬ方向に折れていたら…」と言う恐怖で、近づけなくなってしまう事があるんですね。

そして、一度それを無難に乗り越えておくと、そうした経験は、次からそうした状況に対応していく上での財産となるんですね。

今回は、運転中の事なのですが、片側一斜線の高架橋のバイパスの入口からの事なのですが、信号が青になって右折しながら入っていこうとした時に、暴走運転の軽トラックが先頭の私の車を追い抜き、何と信号手前で3車線に枝分かれしている反対車線から逆走して行ったのです。

数十メートル行って車線が1本になった所で気付いたようなのですが、なんとそのまま逆走!大型トラックとご対面したところで中央に立ち並ぶポールをパタパタと叩きつけながらこちらの斜線に戻って来ました。

つまり、片側一斜線の高架橋で、私の車の前に来てしまったのです。

運転が荒いとか間違えてとか言う話ではなくて、明らかに精神的に普通の状態では無い感じで、「困ったなぁこれは…」と言う感じでした。その時には「クスリ?」とも思えたくらいでした。

軽トラックは、中央のポールをパタパタと叩きつけながらフラフラと蛇行し、反対車線の流れを止めたりこちらの斜線に戻ってきたりしながらトロトロと蛇行していました。

私は「こりゃぁ、警察に頼んだほうがいいな」と思い、近づいてナンバーを覚えて、後は徐行しながら離れて関わらないようにしたんですね。もちろん、後ろは渋滞です。

そうしたら、しばらく進んだところでその車、路側帯に避けて止まり、窓から腕を出して「前に行け」ってやるんですね。

「行ってもどうせ追い抜きに来るんじゃないの」と思いながらも、取りあえず私ともう1台の車が通り過ぎるとやはり急発進して逆走、追い抜きに来たんですね。「関わらないのが一番」と思い、スピードを落として抜かせようとしたのですが、後ろの車と私の車の間に入り込みました。

私は「変に関わりたくないから、抜くなら早く抜きな」と思っていたのですが、私の車は抜きに来ないんですね。

「じゃあ、行こうかな」と言う事で、ゆっくりと普通に走り始めたのですが、直ぐに後ろには1台も車が見えなくなりました。

その時は、車の運転中でリアルに移り行く現実の中にあり、どういう事だったのか良く分らなかったのですが、後になって考えて見ると、エネルギー的な表現も含めて言えば、その人と私の「お互いの波動が共鳴しなかった」と言う事なのではないかと思うのです。

具体的には後で書いていきますが、その人は内面的には色々考えられますが、パッと1つの行動軸を言えば、「自分に振り回される人々の反応」が欲しかったのだと思います。

反対車線の車の流れが止まり、引きつった顔で自分を避けて行ったり、自分の後ろの車が追い抜こうとするのを押さえ込んだりする事で、「自分の存在を感じたかった」のだろうと思うんですね。

抜き返された私の後ろにいた車も、慌てて私についてきて、「お願いだから行かせて~」って言うオーラが滲み出ていたので、抜き返されたのではないかと思うのです。

ただ、私の場合は、相手を中心にその場を捉えて「その人を追い抜いて先に行きたい」とか「その人から逃げたい」と言うのではなく、自分を中心にその場を捉えて「その人には関わりたくない」と言うものでした。

つまり、相手をしてくれないから面白くなかったんじゃないかと思うのです。

だから、「お前はツマラナイから先に行って」と言う形で、プッと前に吹き出されたのだと思います。

走行の妨害をするその人の車を、追い抜こうとするのを止めたり、人々がイライラと怒り出すことで、その人はネガティブな側面から自分の存在を実感しているのだと思います。

おそらく日常において、ポジティブ(調和的)な側面から自分の存在実感を捉える事が出来なくなってしまっているのかも知れません。

ところが私は、「わかったわかった、邪魔はしないから、やりたい事があるならさっさとやりな。」と言う具合に離れて行ってしまったので、「あれっ、遊んでくれないの?」となったのかも知れません。

私が止まったので、後ろの車も全て止まり、みんなと遊びに来たつもりが一人になってしまったと言うことなのでしょう。

だから、その人からしてみれば、そこに詰まった異物(つまり私)を取り除いたのではないかと後になってそんな気がしています。

これも、過去の諸々の経験の中で揉まれて来たおかげだと思います。「抵抗は抵抗を呼ぶ」と言う事を身をもって体験して来たので、反射的に「抵抗」せずに「手放す」事を選択できたのが良かったんじゃないかなぁと思います。

色々な出来事は、単一の条件で起こるわけではなく、全ての場合に単一(例えば今回)の対応が当てはまる訳ではありません。

しかし、今回こうして1つの経験を出来たと言う事は、これから始まろうとしている世界・社会・日常の混沌を考えると、とても貴重な経験になったと思います。

様々な機会にも当てはまることですが、その場の緊張感と言うのは、やはり単に思考的な経験には収まらない貴重なものであると思います。



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