経験の主体
「物質世界」と言うのは、私達の肉体の外側に表れている世界で、私達はそこに囚われて生きて来ました。
一方で、「精神(スピリチュアル)世界」と言うのは、私達の内側に広がる世界であって、そこに意識を集中して生きようとするのが、例えば修行僧のような生き方と言えるかも知れません。
これらは、どちらが正しくどちらが間違っているだとか、どちらが重要でどちらが重要ではないという様なものではありません。
この2つの世界は、1枚のコインの裏表のように一体的に存在しているものなのです。
そして、それらが一体的に表れた1つの世界が、私達個々の「経験世界」であると言えます。
前の記事でも書きましたが、私たちと言うのは、「物質世界」に存在する肉体を一部として有していますが、単にそれだけの存在ではありません。
また、「内面世界」に思考や感情を一部として有していますが、やはり単にそれだけの存在でもありません。
それらがトータル的に実感となって表れる経験世界こそが、より大きな存在としての自分が映し出されているものなのです。
内面世界に主体があり、外面世界に表現があります。つまり、前の記事で書いたように、内面世界を空気に例えると、外面世界が風であると言えます。
空気はあるだけでは実感を伴わないけれど、風となって表れればそれを実感し経験する事が出来ると言うことでした。
こうして両面の世界がともに存在する事で、私達は自分を経験する事が出来ているのですが、主体はあくまでも空気、つまり、内面のスピリチュアル世界にあります。
その内面に広がるスピリチュアルは、100%が自分であると言えます。
つまり、経験のほとんどは自分によって生み出されているものなのです。
ただ、思うように行かない時に私達は、映し出された外側の一部に責任を押し付けて経験の「主体」を自分から切り離して、お金や他人のせいにしてしまいます。(お金や他人をその経験の主体にしてしまいます)
これではどんなにもがいても、なかなか効率的に経験を調和的な心地よいものへと変えていくことは出来ないのかも知れませんね。