アセンションの時代

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許し難い人

頂いたテーマで書いてみたいと思います。

相性が悪く、自分の中で許し難い人が身近におり距離も取りにくい時に、いちいち心を揺さぶられるけれど、どのように乗り越えていったら良いかと言うような話です。

まず1つは、物事を捉える視点をどこに置くかと言う事があります。

そうした、何か問題的な出来事の中にある時には、視点を人間ドラマの中に置くのではなく魂の視点からその意味を捉える必要があります。

人間ドラマの中に入り込んでしまっては、泥沼にはまってしまう事になります。

一方で、幸せな状態にある時と言うのは、その人間ドラマの中に入りきって、その経験を味わえば良いのだろうと思います。

つまり、ケースによって、経験の目的が違うんですね。

幸せな状態と言うのは、それ自体を味わう事に目的があり、不幸な状態と言うのは、そこから学びを得る事に目的があると言う事なのです。

良い結婚をすれば幸せになれるが、悪い結婚をすれば哲学者になれると言われる事があります。どちらの経験にも、それぞれに意味・目的があるけれど、その意味・目的はそれぞれに異なると言う事なのです。

私達は、魂としてこの経験世界の中に入ってきています。幸せを経験しあうのも、学びを与え合うのも、ソウルメイトとの申し合わせによって生み出されている経験なんですね。

嫌な役であっても、スピリチュアル的に目覚めていくためには、そうした学びの機会を与えてくれるソウルメイトが必要なのです。

私の場合を思い返しても、目覚めに向かって強く背中を押してくれたのは、常に一般的に言ってかなり問題のある人たちでした。そして、仕事において固定された上下関係の中にあったんですね。つまり、相手は、立場上は目上の上司や役員であった訳です。

上下関係と言うのは、それを気にしない人にとっては、自分が下である方が強いんですけれどね。(笑)

私の場合は、「その問題は、仕事上の立場とは無関係でしょ。逆に立場が上なら、それくらいの事は理解して周囲に接してくれないと困るよ」と、棘はなるべく取って1世代上の上司にでも、普通にケロッと言ってましたから、相手の方が逆に嫌だったでしょうが。

怒鳴ったって関係ないですもんね。嫌だから怒鳴ってねじ伏せようとするって、あんた、子供か?って、話ですもんね。

そう言う時は、基本的に周囲の人たちの意見を代表で言っている状況であり、余程の相手の時だけですけれどね。(笑)

そうした人との付き合いにおいては、「言う」と言う事は、1つの重要なポイントかも知れませんね。それは、「言い方」とセットにして言える事ですが。

感情を排除して、やんわりとストレートに問題点を指摘するように私はしていました。それで、相手が理解するとかしないとかは関係ないんですね。相手が怒れば、相手との関係にも寄りますが、サラッと流して感情では対応しない事だと思います。

ただ、始めの頃はヒートアップしてくると、容赦なくねじ伏せにかかっていましたが。(笑)

ただ、そうした対応には、相手との関係や自分の性格もあるので、一概には言えないと思いますし、一般的な関係の中では、相手にせずになるべく離れるようにした方が良いとも言えるのかも知れません。

私はそうした時には、こう考えるようにしていました。

「悟りを開いた人・マスターたちでも、自分と同じように腹を立てて怒るだろうか?いや、そんな事は無い。つまり、自分にはまだ、スピリチュアル的に改善する点がある、それは何だろう?」と。

基本的に多くの場合、「相手に主体を置いて、自分がそれに振り回される事を選択している」時に、そうした許し難い怒りが込み上げて来るんですね。

嫌なら断る、良くないと思ったらそう言うなど、「自分に主体を置いてうまくそれを表現する」事が出来るようになれば、許せないほどに怒れる相手と言うのは、自然といなくなっていくんですね。

それは、遠ざかって関係が無くなるという事もありますが、目の前にいて変わらぬ立場からの付き合いがあっても、別に気にならなくなっていくと言う事なんですね。

例えば、周囲まで巻き込んで自分を仲間はずれにするとかであれば、それに巻き込まれて乗っていく周囲の人たちと言うのは、自分の人生においてさほど重要ではない人たちなんですね。つまり、気にしなくて良いのです。

力になびいていく多くの人より、スピリチュアル的に筋を通して付き合いの出来る一人の友達の方が遥かに重要なんですね。

そこでも、なびいていく周囲の人に主体を置くのではなく、自分自身に主体を置いてそうした価値判断をして行くと言う事なのです。

頂いたコメントの詳しい状況はわかりませんが、いずれにしても、「自分がそれに囚われている」と言う事は、「そこに大きな学びの機会がある」と言う事なんですね。

その問題をクリアできれば、今後、それ以下の問題はもはや問題として経験する事は無くなるのです。

魂の視点から捉えてみれば、どんなに腹の立つ人間ドラマも、まあ、大した問題ではないんですね。(笑)

それを知った上で、与えられたその機会に感謝して、ボチボチとスピリチュアル的な目覚めの探求に取り組んでいけると良いのだろうと思います。スピリチュアル的な目覚めを進めるにあたって、今、手に入れている最大の機会は、そこにあるのだと言う事だと思います。

健闘を祈ります。



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