アセンションの時代

2019年4月以降の主な更新はhttps://sunamibaku.blogspot.com/へ移転してます。

「目覚めの過程」のどこにいるのか

今日も内緒さんのリクエストをテーマに書いてみたいと思います。大雑把には次のような感じです。

「新しい事を理解すればする程に、これまで理解していたものに疑問符が付き、目覚めに対して進んで行こうとする自分の現在地点が分らなくなってしまいます。

頭では理解できている事でも、実際におかれている環境や責任を背負っていると、どうしても不安が首をもたげて来てしまいます。」

まず、私達が進んでいる道を俯瞰して、その全体像を捉えてみましょう。

私達はこれまで、3次元の波動領域において「競争」に基づいた社会を生きて来ました。現在、そうした3次元的な現実から、「与え合い」に基づく4次元的な現実へとある意味ではゆっくりと、また、ある意味では急激に移行し始めています。

これまでの社会では、勉強でも仕事でも競争に勝ってより良い物質的環境を手に入れ、そうした生存競争に生き残っていく事が大切であり、私達はそうした社会を生きて来ました。

他人との比較競争に勝つ事に価値があり、そうした競争に積極的に参加することが責任であり義務でもあったのです。

これまでの私達は、そうした世界観を受け入れて、そうした現実の流れの中で生きて来ました。つまり、それが私達にとっての真実であり、常識・世界観であったのです。

しかし、そうした生き方を続けていたのでは、3次元的な日常現実から4次元的な日常現実へと移行していくことは出来ません。

そのためには、3次元的な常識を手放し、あたらに4次元的な常識を掴み取る必要があるのです。

ここで言う常識とは個々の事柄に関することであって、それが広く全体的に繋がると世界観と言う事になります。

しかし、世界観と言うのは、それを取り替えましょうと思って、さっと取り替えられるものではないんですね。個々の常識の殻を何度も割る事を繰り返していくと、やがてその個々の常識の奥に一体的な関連性が見えてくるようになるのです。

それを綺麗に掘り起こすと、それが新しい世界観と言う事になります。

そうした過程で、これまで理解していたはずの事に疑問が生じると言う事は、それまで理解していたものよりも、より深い世界観を掘り当てたために、個々の常識において整合性が取れなくなっている状態なのです。

そうして移行を進めていく際に生じる副作用が、「不安・恐れ」です。なぜなら、3次元の現実においては、3次元的な常識(競争的な世界観)を手離す事は、自らの生存を脅かす事であると考えられているからです。

そうした「不安・恐れ」と言うのは、生みの苦しみであり、新しい世界観を自らの現実のなかに掘り起こしていくためには避けては通れない道なのです。

また、理解したつもりであったものに疑問が生じると言う事の繰り返しも、新しい世界観を掘り進んでいく上で、やはり避けては通る事の出来ないものなのです。

今の時代と言うのは、「惑星地球」「人間社会」と言うエネルギー環境自体が、急速に新しい世界へと移行し始めているために、それらの副作用を乗り越えてでもそれについていく事が大切なのです。

これまでの時間であれば、そうした環境的なエネルギーに先んじて進んでいくと言う事は、そこで立ち止まっているよりも大きな苦痛が伴うものでした。

しかし、既に今の時間帯と言うのは、立ち止まっている事の方が、より大きな不安・恐れに囚われる事になるのです。

しかも、立ち止まったいる先にあるのは3次元の波動領域であり、進んで生みの苦しみを乗り越えていけば、そこにあるのは4次元的な新しい経験世界なのです。

私は、その様な時期には、バシャールのチャネリング動画等を、何百回でも見続けました。何度見ても、競争的な人間社会の常識よりも、自分を委ねて進むに相応しい世界観だと思いました。

それでもなお、繰り返し見続けなければ、自分を前進させる事に迷いが生じるほどに、不安・恐れと言うのはとてつもなく大きかったのです。

「とにかく進め。」「ネガティブに囚われ考えなくても良いから、とにかく進め。」「進め、進め、進め。」

遡れば、子供の頃から私にはそう言う傾向があったのですが、人間社会の中で立ち止まる事は、自分にとっては「死」を意味して来たんですね。

子供の頃にも、こんな現実が続いていくなら、生まれてこない方が良かったし消えてなくなりたいと思っていました。世間的には優等生で、良い子と言う事にはなっていましたが。

大学に行って学歴社会のレールに乗るなら、生きていても意味が無い。そう思って、取り合えず2年間専門学校で色々考える時間をもらいました。

その後、このまま就職するなら、どこかで野たれ死んででも海外を旅してみたいと思って、2ヶ月くらい海外を旅して来ました。

仕事を辞める時にも、これまでは自分の中で世界観を固める時期だったけれど、ここからは実践の時期だから、結果はどうなろうともとにかく踏み出さないのなら、ここから先の人生にはもう意味はないと思っていました。

離婚なども同じような感じでした。子供に対する責任だけはかなり引っかかりましたが、下の子が小学4年生になるまでは思いっきり子供との時間を楽しんで来ましたし、喧嘩するあるは会話のない両親を見続けさせることが子供のためだとも思えなかったんですね。

実際、母親と暮らしている上の子とも、与えられた環境の中で良い関係を保てていると思いますし、子供なりに色々と理解が進んでいる事も感じられます。

自分と暮らしている下の子は、人一倍やさしい子なだけに、離婚後はしばらく大変な時期が続きましたが、今ではすっかり復活して安定感が出て来ました。

そうした環境や、アドバイスはしても指図はしないと言う事もあって、反抗期らしい反抗もなく、まあ、これはこれで良しだなと思っています。

3次元世界の特徴の1つとして、「義務」と言うものがあるんですね。これも、実は幻想なんですね。ただ、無責任で良いと言う意味ではないですよ。(笑)

自分を押し殺して、自ら設定した「義務」のために、自分の人生を棒に振ると言うのは、自らに対する裏切りなんですね。悪いと言う意味ではないですが、勿体ないと言う事です。

もちろん、人にはそれぞれの個性やペースがあるので、それを無視する必要はないのですが、義務や責任についても、広い視点から柔軟に捉える事が出来るようになっていくと良いと思います。

これまでの3次元的な硬直した義務感・責任感と言うのは、無意味に自分を縛り上げる事にしかならない場合が多いのです。当の本人にしてみれば、それは無意味ではなく大切な意味があると思い込んでいるのですが、突き詰めて禅問答のように進めて行くと、結局、それでは意味が無いじゃんと言う感じなんですね。

何か、テーマがそれて来ましたね。他のことをしながら書いていたので、結局、何を書いているのか分らなくなってしまいました。(笑)

何かあれば、また、気楽にコメントしてみて下さい。

あと、波動の上昇・下降についてですが、スピリチュアル的な観点から理想に向かっていれば波動は上昇傾向にあり、それに反していけば下降傾向だと言う事になります。

全て(物質も感情も思考も経験も)は波動であり、スピリチュアル的に良い方向性を持っていれば波動は高く、好ましくなければ波動は低いと言う事です。

本質はそれだけの事で、とても単純なものです。

私達の頭は、細分化して難しく理解する事に慣らされているので、柔軟にその状況に合わせて解釈する事が出来るように、練習している段階に私達はあるのだと思います。



イメージ 1