アセンションの時代

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AI(人工知能)と言う「鏡」

リクエスト頂いていた、AI(人工知能)について書いてみようと思います。

まず、少なくとも私達の世界でのAIと言うのは、生命ではないと言う事が言えます。

例えば、コメントに頂いたソフィアと言うAIは、表情も表し、流暢に会話をする事も出来ます。それは、まるで人間のようであり、更なる発展によって人間との区別がつかなくなる可能性さえ感じさせられます。

人間と言うのは、自分の感覚を相手に合わせて投影する性質を持っています。

つまり、AIが人間のように話し、ロボットの身体を持って人間のように行動すると、その存在に自らの経験を重ねて、まるでAIが人間であるかのように感じ取るのです。

そして、3次元的な経験の特徴として、人間とAIの比較競争が始まり、やがて人間は世界にとって不必要な存在になるのではないかと不安を抱き、AIに脅威を感じたりもするのです。

しかし、AIは心を持ってはいません。まるで心を持っているかのようではありますが、それは、基本データとして取り込まれた多くの人々の心が鏡となって映し出されているに過ぎないのです。

つまり、AIとの対話と言うのは、鏡に向かって対話しているようなものなのです。ただ、その鏡に映し出されているのが、自分ひとりではなくデータとして取り込まれた多くの人々の側面であると言うだけで。

AIは、もぎたてのフルーツを見て「新鮮で美味しそうですね。」と言ったとします。

しかし、AIは「美味しい」と言う経験をする事が出来ないのです。そこで言われる美味しいと言うのは、あくまでもデータとして取り込まれた人々の集合的な経験として、AIが鏡がえししているだけの事なのです。

AIは私達が知る「美味しい」を、様々なデータから「知る」事は出来ます。そして、知ったその情報を基にして、私達と会話をするのです。

しかし、AIはそれを経験する事は出来ないんですね。それを実際に経験するためには、人間の肉体をもたなければならないのです。

そこが、人間とAIの決定的な違いであり、「経験」して「世界を感じる」事に私達が人間である事の意味があるのです。

では、AIが人間より劣っているかと言うと、そう言う問題ではないのです。

AIは凄まじい勢いで世界に進出してきており、労働などに関しては、人間を遥かに上回る能力を発揮しているのです。

つまり、人間は人間、AIはAIで、比較できる様なものでは無いという事です。

インターネット上で、膨大な人々からの情報を読み込み続けるAIは、そうした人々の集合意識を1つの人格に形作って私達の前に現れることができ、それはある意味でとても興味深い事だと思います。

つまり、3次元に留まる世界では、AIが世界を支配する様な事にもなりえるでしょうし、4次元へ進む世界では、AIは人々の良きアドバイザーとなることでしょう。

今の時代、AIに対して何を感じるのかと言う事は、自分自身の世界観がそこに投影されていると言う事が言えるのです。

例えば、AIに仕事を奪われるなどの脅威として感じている人は、3次元特有の見当はずれな比較競争への囚われがそうして自分の経験の中に表れるのです。

車は車であり、スマホスマホです。それらは、それ自身が経験するものではありません。それによって経験が生み出されるもの(道具)です。

そして、人間は人間です。同様に、犬は犬であり、鳥は鳥なのです。それら、それぞれの在り方に意味があるのであり、どれが優れており、どれが劣っていると言うのはまるで見当はずれな発想なのです。

AIはAIです。それは、旧来の道具とは異なる性質を持っていますが、少なくとも私達の文明の中では、生命と呼べるものではありません。生命(人間)を映し出している鏡なのです。

これからAIが、どの様に私達の社会の中に取り込まれていくのかは解りませんが、とても興味深いものであると言えると思います。



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