アセンションの時代

2019年4月以降の主な更新はhttps://sunamibaku.blogspot.com/へ移転してます。

視覚とエネルギー体

yoさんに頂いたコメントから、「視覚」に関連して記事を書いてみます。つまり、この記事はyoさんと私の共同によるものであり、yoさんがコメントをくれなければ、私の考えもこうして記事になる事は無かったと言う事です。

全ての経験と言うのは、こうした相対的な関係に支えられています。テーマを与えてくれる人がいるから、それに応える人がいて、それを読んでくれる人がいるから、こうしてブログとして書く人がいる訳なんですね。

その時、読むと言う立場から一歩踏み出して、テーマを与えてくれると言うのは実はそれ自体が共有するその場全体にとっての大きな前進なんですね。yoさんに限った事ではありませんが、いつもコメントしてくれる皆さんには感謝してます。コメント欄として過剰な連投等には気をつけて欲しいですが。

さて、本題に入ります。基本的に、3次元で私達が経験してきた感覚と言うのは、主に「五感」と言われて来ました。視覚・聴覚・嗅覚・触覚・味覚。

これらのいずれもが、3次元の経験と密接に関わりそれを生み出してきたものですが、その中でも「視覚」は、3次元世界の雛形であると言う事が出来るのかも知れません。

私達は、視覚によって自らの意識の中に映し出した映像に、自らのエネルギー体を重ね合わせる事によって、様々な感覚を生み出しているのです。

他の感覚も、実際には同じ事が言えるのですが、視覚の場合は3次元の経験を支える雛形としての影響力が特別に大きいのです。

私の感じているエネルギー感覚と言うのは、触覚や空間的な距離感などを生み出していると言うことを感じる事が出来ます。

あまり意識していないのですが、味覚や嗅覚も同じように捉えていけるだろうと思っています。

それらと比べるとかなり難しいのですが、聴覚と言うのも、エネルギー感覚によって解釈する事が出来るのではないかと思っているのですが、「視覚」だけは、それらとは種類が異なるような気がするのです。良く分らないのですが。

誰だったか覚えていないのですが、チャネリング情報の中に、「目を瞑ってみて下さい。それが死後の世界です。」と言う様な内容のものがあったのです。(実際には暗闇ではなく、自らの波動に共鳴した視覚的映像が見えてくると思いますが)

目を閉じると、視覚(つまり、3次元世界の雛形)がシャットダウンされて、3次元的な経験から開放される事になるのです。

そこにあるのは、視覚と言う先入観(雛形)から開放された純粋な「感覚」なのです。それが、エネルギー体の生み出している感覚です。そして、その感覚の届く範囲内が自らのエネルギー体として存在しているものです。

しかし、私達は目を瞑っても、あくまでも視覚による3次元的経験の雛形にはめ込んで、思考の力で肉体的な経験を維持します。そのために、エネルギー体を捉える事が出来ないのです。

私達が感じている感覚と言うのは、エネルギー体が生み出しているもので、エネルギー体そのものなのですが、思考の力によってそれを肉体と言う3次元的な経験にはめ込んでいるのです。

瞑想と言うのは、「無」になる事ではないんですね。無になる事は出来ないのです。逆に出来たら困りますよね。無になってしまったら、そこから有に戻ってくる事が出来なくなってしまいます。

つまり、全てを無にするのではなくて、思考によって生み出している3次元的な雛形(先入観)を無にして、ただ、感じるままに「感覚」の中に浸りきると言う事なのです。

始めの内は、肉体的な枠を感じる事になりますが、それは自らの思考が生み出しているものであり、肉体と言う先入観を取り除くことに慣れて来ると、逆に肉体的な枠を感じ取る事が出来なくなります。

つまり、肉体を起点として感覚自体はこれまでと同じように生まれるのですが、それが、肉体と言う枠の中ではなくて、エネルギー体と言う枠の中に広がるのです。

さて、ここで頂いたコメントに、生まれつき目が不自由な人の経験について触れている部分があったのですが、その場合、私達の様に3次元世界の雛形(視覚情報)が頭に入っていないために、常にエネルギー体としての感覚の中で特殊な世界を経験している可能性があるのではないかと思います。

そうした場合、私達の感覚の主体である視覚が閉ざされているために、他の感覚が意識の中でより主体的な役割を果たす事になり、私達の経験上に登ってこない事まで経験している事はあり得ると思います。

つまり、私達が流してしまっている音や匂いなどを、普通に意識の中に捉えて経験していると言う事です。

もちろん、個性や育った環境などによって、個人差は大きいと思いますが、そういった事は多々あるのではないかと思います。

そうした私達とは異なった情報源から物事を捉えると言う事が、私達が見落としていた部分に気付くことにも繋がり、真実を見抜く力が強いと言うように感じる事もあるかも知れません。

ただ、第三の目が発達しているかどうかと言う事については、目が見えるか見えないかとはあまり関係ないかも知れません。

目が見えても見えなくても、第三の目が発達する人は発達するし、そうでない人はそうでないと思います。つまり、個人の経験環境の問題よりは、そこから何を学んで目覚めを進められているかどうかが重要になると思うのです。

ちなみに第三の目の働きと言うのは、必ずしも霊視・遠隔視などの様な視覚的表れに限ったものではなく、広い視点から真実を見抜く力なども含まれており、人それぞれに個性に合った能力から徐々に表れて来る事になります。

「感じるもの」を大切にすると言うのは、今の時代を生きて行く上での大きなテーマの1つであると言えます。

それは、感情や気分、感覚的なものの全てを含みます。考える事が一概に悪いと言う訳ではありませんが、考える事はそれとは異なります。感じる事はハート、考える事はマインドに由来しており、これまでマインドに主体を置いてきた私達は、その主体をハートに移行させていくことが大切なのです。

マインドに主体を置いた状態では、3次元の経験世界から抜け出す事は難しいんですね。繰り返しになりますが、マインドは悪くて必要ないという意味ではありません。ハートの声を現実化する上で、マインドは重要な役割を持っているのです。

まっ、ボチボチと楽しんで行きたいですね。(笑)



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